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日露演劇交流年表 露演劇会議編

1927年

11月、小山内薫、ソ連政府に招かれ多くのロシア演劇人と交流するも、1928年12月急死。この時(ソビエト革命10周年)には、小山内のほかに、米川正夫・中条百合子・秋田雨雀・湯浅芳子らも訪露。

1928年

5月、谷譲次、世界一周の途次、シベリア鉄道にてモスクワに立ち寄る。(『踊る地平線』上巻)
8月、2世市川左団次訪ソ。モスクワ(第2モスクワ芸術専門劇場、ボリショイ劇場)、ペテルブルク(レニングラード国立オペラ劇場)で、『仮名手本忠臣蔵』『娘道成寺』『操三番叟』『番町皿屋敷』『鳴神』『修禅寺物語』『鷺娘』『花見踊』『だんまり』『鳥辺山心中』を上演。(『左団次自伝』ほか)
10月、市川左団次、スタニスラフスキーと会談。

1930年

「メイエルホリド、パリで歌舞伎(筒井徳二郎一座)を見る」(田中徳一)。翌年4月、筒井徳二郎ヨーロッパ巡業の帰途、単身モスクワ訪問。シベリア経由で4月15日帰国。

1933年

日本を脱出した土方与志、家族とともにヨーロッパを経てモスクワ入り。37年の出国(国外退去)までモスクワ市立革命劇場で演出研究員として働く。同時期、佐野碩はモスクワの国立メイエルホリド劇場の演出研究員として働くが、37年土方とともに国外退去となる。佐野は39年にメキシコに亡命、「芸術劇場」を組織、死後「メキシコ演劇の父」と称えられた。

1936年

アメリカでスタニスラフスキーの『俳優修業』を出版。

1938年

1月、女優・岡田嘉子、演出家・杉本良吉とともに樺太でソ連に越境。2人はすぐに引き離され、杉本は2年後にスパイ容疑で銃殺。岡田は、後にモスクワでゴンチャロフの指導を受け、59年に『女の一生』を演出。

1941年

12月、開戦。真珠湾攻撃。

1943年

山田肇訳『俳優修業』道統社から出版(英語版からの翻訳、第1部のみ)。51年、創元社から再刊。第2部は54年、未来社から出版(このとき創元社版を絶版とする)。

1945年

8月、敗戦。

1958年

12月、モスクワ芸術座初来日。新橋演舞場で『桜の園』『三人姉妹』『どん底』『検察官』『落ち着かない老年』を上演。

1961年

1月、日ソ民間文化協定調印。
7月、松竹歌舞伎、モスクワ(ワフタゴン劇場)、ペテルブルク(レンソヴェート文化宮殿)で『鳴神』『連獅子』『籠釣瓶』『娘道成寺』『俊寛』を上演。

1968年

9月、モスクワ芸術座2度目の来日。日生劇場で『三人姉妹』『どん底』『検察官』『ワーニャ伯父さん』『クレムリンの大時計』『可愛い嘘つき』を上演。

1981年

4月、劇団東演、A.エーフロス演出で『桜の園』を三越ロイヤルシアターで上演。

1982年

9月、劇団東演、A.エーフロス演出『ナターシャ』(栗原小巻主演)を三越ロイヤルシアターで上演。

1983年

ペテルブルクのボリショイ・ドラマ劇場初来日。『ある馬の物語』『検察官』『ワーニャ伯父さん』『小市民』を上演。

1984年

和田豊、ロシアで安部公房の『幽霊はここにいる』を演出。

1986年

2月、栗原小巻プロデュース公演『恋愛論』をS.ユルスキイの演出で俳優座劇場で上演。

1987年

6月、劇団俳優座地方公演で、V.フォーキン演出『去年の夏、チュリームスクで』を上演。88年にも上演。
6月、松竹歌舞伎、ペテルブルク(ボリショイ・ドラマ劇場)、モスクワ(モスクワ芸術座)で『勧進帳』『隅田川』『傾城反魂香・吃又』を上演。

1988年

3月、モスクワ芸術座3度目の来日。日生劇場で『伯父ワーニャ』『かもめ』『真珠貝のジナイーダ』を上演。
ペテルブルクのボリショイ・ドラマ劇場2度目の来日。『アマデウス』『ワーニャ伯父さん』『ある馬の物語』を上演。

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