1874年 | オストロフスキー「ロシア劇作家・歌劇作家協会」設立。 榎本武揚、駐ロシア大使となる。 |
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1875年 | ロシア、日本との千島樺太条約に調印。 |
1886年 | 年末から春にかけてスタニスラフスキーの自宅に日本の軽業師(佐々木虎吉ら)が宿泊、1887年4月にスタニスラフスキーの家で上演されたオペレッタ『ミカド』(兄アレクセーエフの演出)の芸者の立ち居振る舞い、衣装作りを指導。(『芸術におけるわが生涯』) |
1890年 | 4月、チェーホフ、サハリンへ出発。当初の予定では、帰路日本にも立ち寄る予定であったが、コレラ騒ぎのため旅程を変更することとなった。 |
1891年 | 5月、大津事件(皇太子ニコライ、襲われる)。 |
1892年 | 2月、福島安正少佐ベルリンを出発。単騎シベリア横断の途につく(93年6月ウラジオストク着) |
1898年 | スタニスラフスキーら、モスクワ芸術座を創設。 |
1902年 | 川上一座(貞奴)ロシアで公演。皇帝ニコライ2世から金時計を贈られる。(『女優貞奴』) |
1904年 | 1月、日露戦争勃発。 7月、チェーホフ死去。 |
1907年 | 横綱常陸山、アメリカ・ヨーロッパ漫遊の帰路シベリアを経て帰国。 |
1908年 | 6月、二葉亭四迷、朝日新聞特派員としてペテルスブルクに赴くが、09年肺結核となり、帰国途上ベンガル湾にて死去(5月10日)。 |
1909年 | 12月、花子(本名・太田ひさ)モスクワで公演。花子はロダンの彫刻「死の首」のモデルとなった女性。彼女は都合3回にわたるロシア巡業を行いスタニスラフスキーやチェホフ夫人とも親しくなった。(『ロダンと花子』) |
1910年 | 12月、小山内薫、自由劇場第3回試演(有楽座)でゴーリキーの『夜の宿』(『どん底』)を訳・演出。 |
1911年 | 12月、花子、ペテルブルクで公演。 |
1912年 | 12月、小山内薫ロシアを訪問、モスクワ芸術座の舞台を見、感激。スタニスラフスキーと会う。小山内はこの時に見た『どん底』などの舞台を克明にノートし、後の演出に生かした。(「ロシアの年越し」) |