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ロシア演劇情報

モスクワのチェーホフ劇……意欲的な舞台の数々     

2011/02/25
桜井 郁子(ロシア演劇研究者)

生誕150周年を迎えてモスクワはチェーホフ芝居の花盛りになった。その記念年の2010年も過ぎたのに、まだまだ意欲的な試みが絶えない。その辺りについて報告しておきたい。
2009年から現在まで上演された評判作の一覧から……、
ジェノヴァチの主宰する「演劇芸術スタジオ」の『三年』。(チェーホフの同名長編小説の脚色作品)、初演2009年6月、勿論演出はセルゲイ・ジェノヴァチ。
モスクワ・ワフタンゴフ劇場。『ワーニャおじさん』。異才リマス・トゥミナスの演出、主演のS・マコヴィツキイの演技に派手さはないが、これまでになかった作品の内省的な解釈が話題になる。初演2009年9月。
モスクワ・レンコ厶劇場。『桜の園』。演出、マルク・ザハーロフ。初演2010年9月。
「ドラマ芸術の学校」劇団。『タララブ厶ビヤー』。あまり聞きなれない隠れた劇団の公演でありながら、政府やモスクワ市の後援も受けて、国際チェーホフ演劇祭の人気演目になった。ドミートリイ・クルイモフ演出、初演2010年2月。(題名は、『三人姉妹』で、脇役チェブトぅィキンがいつも呟いている歌の一節)。
モスクワ芸術座(チェーホフ名称)。『決闘』。(チェーホフの同名短編小説にもとずく)。演出はA・ヤーコヴレフ。初演2010年5月。
モスクワ・スタニスラフスキー劇場。『チェ兄弟』。エレーナ・グレミナ作。演出はA・ガリビン。(チェはチェーホフの頭のロシア文字のこと。勿論アントンを中心にしたチェーホフ兄弟について、一家について書かれた作品。)初演は2010年6月。
「演劇芸術スタジオ」。『チェーホフの手帳』。作・演出はセルゲイ・ジェノヴァチ。(原題は『手帳』。ロシア人なら「ああ、チェーホフの……」と誰でも気がつくはずだが、ここでは「チェーホフの」を付した)。初演2010年9月。ジェノヴァチは2年続けてチェーホフに取り組んでいる。劇団はこの舞台と次作のために、チェーホフの生誕の地タガンローグを訪れた。
一番ホットなニュースはモスクワ「スタニスラフスキー邸の傍」劇場。『忘れるべきか、それとももはや生きるべきでないか』。作・演出はユーリイ・ポグレブニチコ。(小さな隠れ劇場ながら、問題作を作り出してきた演出家が、なにやら物騒な題名の舞台を作り出した、勿論、題名はチェーホフその人の言葉ではあるが)。初演2011年1月20日。

このうち2011年度の<黄金のマスク賞 ー 2009—2010>にノミネートされているのは、評論家たちの圧倒的支持を受けたワフタンゴフ劇場の『ワーニャおじさん』のほか、実験劇部門にクルイモフ演出の『タララブ厶ビヤー』があがっている。念のため、報告しておくと、S・ペテルブルグのアレクサンドリンスキイ劇場の『ワーニャおじさん』もノミネートされている。こちらはわりとトリッキイな舞台らしいが……。4月15日に果たしてどんな舞台が表彰されるか、注目したい。

『タララブ厶ビヤー』について、作品および演出家のことを紹介したい。
この作品は普通の意味の舞台を少し踏み外している。どちらかと言うと、アントン・チェーホフに敬意を表しての“パレード”である。偉大な作家に関わるすべての存在を劇的空間で表現する試みである。動く歩道に沿って行進するのは80人のアーチスト、彼らのために用意されたのは300着の衣装。トリック、ビデオ、照明効果が動員された。観客はこの歩道の両側に設けられた席から観劇した。
クルイモフの言葉を引用してみよう。「もう100年以上チェーホフの登場人物たちは、全世界の舞台に生きている。彼らの名前は普通名詞になり、彼らの状況は典型的で、そのせりふは全ての演劇人だけでなく、全ロシアのインテリゲンチャの暗号になっている。……/ 例えば、マーシャとヴェルシーニンの「トラム、パ厶、パ厶」「パ厶…パ厶…パ厶…」は「ロメオ! どうしてあんたはロメオなの?」とならぶ愛のささやき。 / コースチャ・トレープレフの戯曲の冒頭「人間も、ライオンも、ワシも、ライチョウも、……」は全てのロシア・シンボリズムを凌駕して、その題辞となり、……/ 若つくりをした母が強情な息子の包帯をまいてやり、始めはうまくゆくが、後ではいつもの神経質な叫び、罵りとなり、外れた包帯は、デンマークの王子の手にしたたる血と同様に裾にまつわる……/ 愛すべき、哀れな人々は何もできず、自分たちの人生が地獄に落ちてゆくのを見ながら、優しいが、少々おかしい彼らは叫んでいる。「妹よ! 判ってくれたらなあ!」、「おじさん! かわいそうなおじさん!」、あるいは「愛する妹たち! もしも、わかったらねえ……」と。/ フィールスは忘れられ、姉妹はモスクワへ行けず、トゥゼンバフにもイリーナにも幸せなレンが工場はやってこないし、アーストロフにもエレーナにもどんな森林地帯も実現せず、…… そして一般に全ての我々に「こんにちは、新しい生活!」が訪れることもない。……
あんなにもつつましく生き、あんなにも声高な死にあった人、あんなにも俗悪を憎みながら、“かき”用の貨物列車で祖国へ送られた人。こんなに奇妙で、不安定で、こんなにも強く、こんなにも小さく、またこんなにも巨大な世界を描いた人、この人の誕生日を、全ての彼の登場人物を集めて“パレード”できたら、どんなにいいだろう!
みんな一緒に、主人たちも召し使いたちも、芸術家、手品師、音楽家たち、駅長、軍人たち、医者たち、若いかわいい少女たち、永遠の大学生、企業家—新しい桜の園の持ち主、…… そして、ライオンも、ワシも、ライチョウも、そして子供たち、ボービクもソーフォチカも……!
美しい大勢の叫び、歌、おしゃべり、あるいは曲芸をしつつの“行進”、 オーケストラ、合唱、地主庭園のかけら、茶わんとスプーンのあるお茶のテーブル、渡り鳥たち、そして“かき”用の車両で運ばれる巨大なチェーホフ! われわれの眼前によみがえる巨大なチェーホフ!
生と死、美と醜、老いと若さ!
カーニバルだ! タ・ラ・ラ・ブムビヤー!
コメディーだ! まさにチェーホフが言った、そのまんまの! 」

さて、ドミートリイ・クルイモフとはどんな人か。
1954年生まれ。かの演出家エーフロスの申し子である。1976年モスクワ芸術座付属演劇大学を卒業。1976—1986年マーラヤ・ブロンナヤ劇場所属演出家として、またモスクワやペテルブルグの諸劇場、外国でも仕事。約100の舞台美術、いろいろの演出家との共同作業。
90年初めから、劇場を去り、美術。グラフィックに従事する。
2002年より、国立演劇大学(GITIS、現在のRATI)で教え始める。同時に「ドラマ芸術の学校」での実験劇に加わり、いくつかの舞台を自分の学生たち、シチューキン演劇大学の卒業生や、若い俳優たちとつくる。
『タララブ厶ビヤー』は2006—2008年、モスクワの他、外国を含めて、各地での国際演劇祭で試みてきたものを、2010年に集大成したものだった。舞台写真を参照して頂きたい。

さてこのカーニバルと対極の位置に立つ舞台を紹介しないでは、この文は終え難い。セルゲイ・ジェノヴァチに登場してもらおう。
彼の「演劇芸術スタジオ」の公演『三年』である。勿論2010年1月の「チェーホフデー」にも、モスクワ国際チェーホフ演劇祭にも登場して、一定の評価を得ている。
原作は代表作品でもなく、完成作とも言い難いが、作家がサハリン旅行後に書いた初めての長編小説、彼の人生の一つの転機に書かれ、これまで書いた全て、後の成熟期に書かれる全ての萌芽を含んでいる、いわばチェーホフ的テーマが集中している作品である。そして多くが彼自身の体験にもとずくと言われている。彼のよく知っている商人の店や倉庫、モスクワの通りや商店街……。主人公の商人ラプチェフは専制的な父親、精神病を患う弟をもち、片思いの恋を抱いていた。彼には金も、財産もあるが、これは彼に幸せをもたらさない。主人公は憂愁にとらわれ、達成できない望みと早くも襲う老いに悩んでいる。彼は愛するユーリヤと結婚したが、彼女は愛をもって応えない。次々と襲う身内の不幸に、ラプチェフは干からびて絶望に襲われる。ユーリヤがとうとう彼に愛を告白した時、軽い痛みを覚えるだけ、それは三年も遅れた告白だった。実際チェーホフの小説はほろ苦く、厳しい。
しかしジェノヴァチはこの物語を暖かいトーンで飾った。逃れられぬ事件や沈滞した生活にも、何かしらポジチブなものを見いだす。このオプチミズムはユーリヤの演技に見て取れる。ユーリヤとて愛なくして結婚した日々に悩み、折角恵まれた愛し子を病で奪われ、盲目に襲われようとしている舅の窮状、店と倉庫の実情に気づいて、夫に家業の立て直しを促す。ラプチェフはしばし家業に従事するが、自分の生き甲斐は見いだせない。「この気乗りのしない事業や数百万の財産が、やがては自分を奴隷に仕立てしまうだろう」という思い、しかし家業を捨てて、自由で楽しいはずの外の生活に身を投じることも叶わないと思う。ラプチェフはこの果てしない物思いで知人と論争し、舞台から観客席に訴える。一方、長い試練の中で鍛えられたユーリヤは、かつてのか細い少女でなく、見違えるほど成熟しきった美しさで、率直に愛を告白する。「未来には何かが我々を待っているいるのだろう……。もう少し生きのびて、それを見ることにしよう」という言葉がリフレーンとなって、小説の最後に、またジェノヴァチの幕が下りる時に聞こえてくる。

ジェノヴァチの新しい舞台『チェーホフの手帳』は、まだ誰も舞台化していない作品。ここでは、『三年』に劣らぬ“人生談義”が、全劇団員の出演する舞台で、作家への愛をこめて語られていると言う。期待を持って見守ってゆきたい。