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ロシア演劇情報

特別寄稿 メイエルホリド劇場から来日したロシア人 

2013/11/05
 日露演劇会議事務局

1927年、メイエルホリド劇場から来日したロシア人グリゴーリー・ガウズネル(1907-1934)    Masaru ITO

 ここに訳出するのは、グリゴーリー・ガウズネル著『見知らぬ日本』(1929)の一章である。メイエルホリド劇場演出部の研修生だったガウズネルは1927年に来日し、およそ半年の間、東京、箱根、京都、奈良、大阪などを旅行してまわった。彼はメイエルホリド劇場から派遣され、かつロシアの新聞『ナーシャ・ガジエータ(我らの新聞)』の特派員として日本を訪れている。その間、日本の古典芸能から左翼演劇まで様々な舞台を観劇した。旅先での記録は、ほぼリアルタイムで『ナーシャ・ガジエータ』の紙面に載せられたが、帰国後これらの記事に大幅に加筆、修正を加え、旅行記として冒頭にあげた『見知らぬ日本』というタイトルで出版している。若干の脚色があるとはいえ、おおむね事実に沿っていると考えられるこの旅行記は、ドキュメント資料としても貴重なものだが、現在のところ、ロシア国内においても同時代で話題になったほど注目されてはいない。

実はこの『見知らぬ日本』、その後1930年にラジオドラマ化されている。これは日本を旅する一人のロシア人が主人公のモノドラマで、役を演じたのはメイエルホリド劇場の看板俳優エラスト・ガーリンだった(このときガウズネルはメイエルホリド劇場から籍を抜いていたが)。録音技術の発達していないこの時期、ラジオドラマはすべて生放送で行われ、放送のたびにガーリンはマイクの前に立って演じた。このドラマは大反響を呼び、現在でもロシアのラジオドラマ黎明期における重要な作品と看做されている。その証拠にガーリンはソヴィエト時代、演劇のみならず映画俳優として名声を博すが、それに劣らぬほどにラジオドラマの俳優として知られていた。その彼がおそるおそるラジオの世界へと踏み出した第一歩が、このガウズネルの『見知らぬ日本』を原案としたラジオドラマ『日本への旅』だった。

20歳のガウズネルが、遠くモスクワから日本へと旅をして、そこで見聞きしたものを記述する様は、若者らしい率直な意見と、メイエルホリドの側にいたロシア人ならではの偏りつつも厳しい視線に満ちている。今回訳した部分は、彼が東京で当時の前衛左翼演劇「前衛座」の劇場を訪れた際の記録であるが、ここに出てくる日本人は、近代日本演劇史において重要な人物ばかりである。ガウズネルと行動をともにするヨシダは、おそらく1938年に岡田嘉子と国境を越えてソ連に亡命を図り、スパイ容疑で銃刑に処せられた杉本良吉(本名、吉田好正)のことだろう。演出家のササキは佐々木孝丸、ムラヤマは村山知義のことである。ドイツの表現主義演劇やロシアの革命演劇を規範として舞台を作っていた彼らのもとに、メイエルホリド劇場からロシア人が来るという知らせはどれほどのものだったか、想像に難くない。結果として、彼らの出会いはそれほど幸せなものではなかったと思われるが、それも一つの歴史の事実だろう。20年代の日本の前衛演劇は、基本的には西洋からの輸入であった。しかし、それは情熱的かつ不器用にもがく当時のインテリの若者たちの手による、全力で不格好な輸入品だった。同年代の若者たちによるそうした作品を目にしたガウズネルは、技術的に評価はできなくとも、親しみを感じていた。

なお、この中で触れられているガウズネルが行った講演は、日本の雑誌『文藝戦線』1927年10月号に掲載されている。講演の内容は、『見知らぬ日本』で触れられているように、もっぱらメイエルホリドの演出手法に関するものだったが、日本人の聴衆に向けられた結論は、前衛座の面々にとって手厳しいものだった。やや長いがその部分を引用したい。

「ややもすれば、なんでもかんでも「メイエルホリド式」を真似したがる日本の若い新劇団に向かって、特にこのことを云って置きたい。

日本の新劇団は未だ初めの方にいる。諸君の努力はこれからだと思う。

メイエルホリド座の人々は、芸術の為に仕事をしているのではなく、人類の未来の為に仕事をしているのである。これが最も重要な点なのであって、それを忘れたならば、メイエルホリド存在の意義は喪失してしまうであろう。

現在メイエルホリド座には500人の劇場人が働いており、そのうち五割以上は共産党員である。彼らは皆、偉大なる革命事業完成の為に、懸命になって働いている。

最後にこの短い講義を終わるにあたって、私は、日本に於ける唯一の政治的劇団。−−無産階級の政治的劇団たる「前衛座」の諸君に対して、一言苦言を呈しておきたい。というのは、諸君の劇団は、諸君が表現しようとする唯一の正しいものをもっているにもかかわらず、その大事なイデオロギーを表現するに最も適確した諸君独自の「技術」をもっていないように思われる。即ち諸君の現在は、第19世紀末の一般劇団とは違った意味で、「内容過重」癖に陥っているらしく思われる。これは止むを得ないことに思われるが、「内容」を強くアピールする為には、力強い技術が創り上げられねばならぬ。

同士諸君の一層の奮励を望む次第である」(『文藝戦線』1927年10月号、69-70頁)

こうした直截的な言葉は、当然日本の「前衛座」の面々の心に火をつけた。激しい議論が起こるのもむべなるかなという印象である。

1928年の歌舞伎ソ連巡業や小山内薫の訪露など、大きい出来事に埋もれてしまった日露演劇交流の一端をここに紹介できればと思う。

http://ru.wikipedia.org/wiki/Гаузнер,_Григорий_Осипович