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ロシア演劇情報

ロシア演劇の巨匠リュビーモフ逝く

2014/10/08
 日露演劇会議事務局

現代ロシア演劇を牽引した巨匠の一人、演出家ユーリー・リュビーモフが10月5日、モスクワ市内の病院で亡くなった。享年97歳。その活動は、ロシア演劇界のみならず日本とも関係の深いものだった。しかし、いまではそのことを知る人も少ないだろう。以下、その略歴を記し、御冥福を祈る。

リュビーモフ写真1

  •  1917年9月30日ヤロスラヴリ州に生まれる。1934年にモスクワ芸術座の第2スタジオに入団。
  • 1936年、ワフタンゴフ記念演劇学校に入学。学生時代からワフタンゴフ劇場で役者として活躍。
  • 1959年に演出家としてデビュー(アレクサンドル・ガーリチの『人は多くのものを必要とするか』)。
  • その後、スタニスラフスキーの教え子である演出家ミハイル・ケドロフに弟子入りするとともに、シチューキン記念演劇大学で講師を務める。
  • 1963年にシチューキン記念演劇大学の学生ら(3年生)を役者に起用してブレヒトの『セチュアンの善人』を演出、当時の演劇界を震撼させた。この成功を受けてリュビーモフはタガンカ劇場の芸術監督に就任。
  • 1976年には伝説的俳優・歌手のヴィソツキー主演の『ハムレット』で「ベオグラード国際演劇フェスティバル」のグランプリを受賞、世界的名声を獲得する。
  • しかし、1960年代末からリュビーモフの作品は検閲のため次々と上演が禁止された。
  • 1980年代に入り、リュビーモフへの政治的圧力は極限を究める。
  • その結果、1984年、リュビーモフはタガンカ劇場の芸術監督の座を辞し、イギリスに亡命。ソ連最高議会はリュビーモフのソ連国籍をはく奪する。
  • 亡命後のリュビーモフは欧米を中心に演出家として幅広く活躍。ただし、ソ連国内の民主化とともにリュビーモフは1989年に帰国を決意。リュビーモフの帰還はタガンカ劇場とモスクワ市民に熱狂的な興奮をもたらす。同年、リュビーモフはソ連国籍を取り戻し、演出家として活動を再開、ソ連崩壊以降のロシア演劇を主導してきた。
  • 1990年に「ハムレット」をセゾン劇場で上演、巨大なカーテンがモップと化す舞台で日本の観客を驚かせた。その後も93年には「罪と罰」を、1997年には「カラマーゾフの兄弟」を静岡で、2002年には「マラー/サド」を上演。また、2007年には鈴木忠志をロシアに招聘してタガンカ劇場で「エレクトラ」を製作・上演するなど、日露の演劇交流にも力を尽くし、07年には日本政府から旭日小綬章が授与された。
  • 1994年からは、ロシア側代表としてシアター・オリンピックス国際委員会の委員を務めていた。
  • しかし、2011年にタガンカ劇場の劇団員と待遇面などを巡って対立、芸術監督を辞任。その後はフリーの演出家として活動していたが、10月2日、体調を崩し(心不全)モスクワ市内の病院に入院したが、5日死去した。合掌。