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活動報告

オーラルヒストリー河崎保氏に聞く③

2016/01/11
 日露演劇会議事務局

河崎保氏

河崎保氏

映画演劇など我々の身近な世界の先輩たちに、激動の20世紀をどう生きてきたのか、その波乱に満ちた人生体験を語っていただくオーラルヒストリー。河崎保氏の3回目だ。

河崎氏は、山本薩夫監督「暴力の街」や関川秀夫監督「きけわだつみの声」、今井正監督「やまびこ学校」などに出演していた元東宝映画の俳優。戦後いち早く政治労働運動に飛び込み、レッドパージに伴う日本共産党の非合法活動に参加。密航で東シナ海を渡り、北京に開設された「自由日本放送」のアナウンサーとなった。
(聞き手は日露演劇会議の横田元一郎と宇野淑子。文責は宇野)

Q)戦後の最も大きな争議といわれた東宝争議も終わって3年以上が過ぎ、映画俳優としても少しずつ活躍の場が広がりつつあった頃、1952年が明けて間もなくですが、日本共産党の地下組織から声がかかって、河崎さんは密航で北京に渡ったのでしたね。レッドパージなどに見舞われ日本国内で合法的な活動が出来なくなった日本共産党が、北京に拠点を置き、そこから電波を使って主義主張を日本に届けようとしたわけですが、河崎さんは妻ともどもその放送のアナウンサー要員として呼び寄せられたわけですね。たった36トンの、当時密かに「人民艦隊」と名づけられていた焼玉エンジンのトロール船に乗り、河崎さんの記憶では3日3晩かかって、荒れる東シナ海を横切り中国大陸へ、そして揚子江を遡って上海に辿り着きました。時化以外に途中危険なことはなかったのですか?

A)何もない、全然なかった。それで揚子江上ってってね、ジャンクって知ってますか? 帆の船。それが僕らにとって凄い印象的だったのは、ジャンクが全部真っ赤な赤旗を掲げていたわけですよ。つまりほら、共産中国が生まれたばっかり、1949年10月1日建国だから。それ見ながら、「うわー凄いな、さすがだなー」ってね。それに船から見える人、歩いてる町の人が全部紺色の人民服。これも凄く印象的だった。道案内人があるところで船を止めてね、「そろそろ迎えに来る頃だけどなあ」「あっ来た来た」って。出迎えがちゃんと来ていて、僕らはそこから上陸。それで車に乗せられて、バスだったかタクシーみたいだったか覚えてないけどね。ひゅーと着いたのが、昔の領事館なんかがあった地域。かつて外国の領事館だか大使館だったと思われる立派な、ほんとに立派な洋風の住宅に入れてもらえた。つまりそういう建物は中国政府の管理下にあったわけね。そうして山海の珍味。何日かろくなものを食べてないところへご馳走の山だった。それで次の日だったかな、今度は汽車で北京へ向かったわけ。

横田) 上海に入るときは何も問題なく入れたの?

A)何の問題もなかった。羅針盤と海図しかない、無線なんかない船だったけど、ちゃんと迎えが来て、上陸できた。

Q)荷物は、ボストンバッグ1個くらいでしたか?

A)ボストンバッグもあったかどうか、ですね。もし途中で捕まったら身元がばれると困るので、着の身着のままという感じでしたね。ただしその時に隠し持って行ったのが、東宝争議の写真。

Q)何故、それを持って行ったのですか?

A)何かに役立つのではなかろうか、と。勘だね。あるいは何かのときに自分の証明になるかも知れないと思ったんだろうね、そのとき。事実これは後に、ブカレストの平和友好祭(’53年8月)で公表するんですけどね。ずーと持ち続けた。

Q)それが身分を証明する唯一のものだったのですね、日本の映画関係者だという。

A)上海で1泊して、これも3日3晩かかったのかなあ、当時の汽車で。そして北京に着いた。船に乗った長崎から同行した元NHK記者の藤井冠次(オーラルヒストリー②を参照)は『伊藤律と北京・徳田機関』にこう書いています。

《北京に着いたのは二月初旬、折柄中共は土地改革実施直後、国民経済再建のさ中で、北京駅頭には〈反浪費・反貧汚・反官僚主義〉の三反運動のスローガンが高く掲げられていた》

 

貧汚って汚職のこと。これに続いていわゆる北京機関のことが出てくる。

Q)北京機関というのは、非合法活動に入った日本共産党の主流派といわれた中心メンバーが、中国共産党の助けで北京に設けた指導部の機関ですね、徳田機関とも呼ばれた。
河崎さんは北京機関のことは到着する前にご存知でしたか? 誰がいるのか。野坂参三さんや徳田球一さんなど地下に潜った日本共産党の幹部たちがいるということは。

A)僕たちは知らなかった。北京で放送を出すということしか知らされていなかった。

《北京には、胡同とよぶ横丁が三千以上もあるという。後にわかったことだが、私たちが着いた先は、西単とよぶ盛り場に近い胡同の一角にある、元高級官僚の邸宅と見える古い門構えの大きな家であった。………そこに機関があり、徳田球一(中国名孫(そん))、野坂参三(丁)、伊藤律(顧(くう))、西沢隆二(林(りん))、土橋一吉(周(しゅう))ら主流派の幹部と、内地から彼らと前後して随行した日共党員、その他中国の東北(トンペイ)(旧満州)出身で機関の要請をうけて参加した日本人同志合わせて十余名の人々がいたのである。》

西沢隆二というのは、「ぬやまひろし」のことね。「♪若者よ~」という歌を作った人。ペンネームがぬやまひろし。知る人ぞ知る。公表されてたわけじゃないからね。僕らは若い頃からぬやまひろしで知ってるわけ。東宝争議の間も、こっちは青共(青年共産同盟)でね、知り合いだったのよ。なぜ彼が北京にいたかというと、これも理由があって、徳田球一の娘婿なの。

Q)そうだったのですか。満州出身の方たちは戦後も帰国しなかった人たち?

A)そう、残留邦人。戦後に中国共産党の八路軍に参加したりなんかして共産革命を助けた人たちね。そんなに沢山いなかったけど。

《彼らは、いずれも日常は人民服を着て中国名を名乗り、私たちも招待所で人民服に着替え、中国名を貰った》

僕が貰った中国名は、中国の要人で郭沫若って人がいたけど、その郭沫若の「郭(グォ)」。カミサンは彭徳懐の「彭(ぺー)」。その後モスクワに行ってからも、僕らパスポート無しで行ってるからね、やっぱり中国名でずーと暮らしていた。だからモスクワの友達は未だに僕らを中国名で覚えているわけ。河崎っていっても、もう今はそりゃあもちろん誰もが知っているけど、でもグォさんペーさんで通っちゃうわけ。
北京の機関が入ったその建物は、凄い豪邸なのよ。確か二階建ての邸宅の方に徳球(徳田球一)、野坂なんかがいて、僕らは、何かこう庭を囲んだ平べったい建物があってね、そこにちっぽけな部屋がいくつかあって、そこで会議をしたりなんかして仕事してたわけ。それを取り仕切っていたのが伊藤律なんです。野坂さんていうのは掴みどころがなくて、表立って仕切ったりしない人。徳球は半病人で全然だめ。西沢隆二はそれほど理論家ではなかったし。藤井冠次が名前を挙げている土橋さんはねえ、年中そこにいたかなあ? ちょっとそこは疑問ですね。
北京には他にも日本人が何人もいたんですよ。例えば産別会議議長の聴濤克巳。聴濤克巳も北京機関じゃない北京の別の場所にいたんですよ。

Q)徳田球一さんは、当時は日本共産党のシンボル的な存在でしたよね? 18年も獄中にいて転向しなかったし、戦後は書記長で衆議院議員、保守からも人気があったという。でもその頃は、藤井さんによると、高血圧の病気療養中で、もう快復の望みはほとんどなかったようですね、余命4年と言われて。
ところで北京機関とは別に、北京に日本共産党の組織があったのですか?

A)共産党関係で組合関係の人とかね。他に例えば前進座の中村翫右衛門も北京にいたんですよ。でも北京機関員じゃあない。北京機関というのは、北京からの地下放送をするために集まった秘密機関。その秘密機関をさっき言った指導者たちが指導してたんだけど、その実権を伊藤律が握っていた。そういう状態だったんです。そこへ僕らはポーンと入れられた。

Q)戦後日本共産党に入った中村翫右衛門さんも、中国に亡命していたのでしたね。
一般に北京機関というのは、幹部が亡命を始めた1950年から全員が帰国する1958年頃までの、北京での日本共産党の拠点と考えられているようですが、河崎さんは、自由日本放送のためだけに設けられた組織だったとお考えなのですね? ところでその自由日本放送はどこから電波を出していたのですか?

A)北京放送局です。そこの放送設備を借りてたんですよ。だからね、胡同の大邸宅から車でね、バーと北京放送局まで案内されるわけ。すると僕ら用にスタジオが1つ。スタジオというか放送室があって、そこに置いてあるでっかい録音機に、放送を録音するんですよ。その録音機っていうのはソ連製。当時の中ソ関係でソ連の援助っていうのは大きかったからね。放送の中身はニュースか解説。僕らが直接ラジオで聞いてたわけじゃないんだけど、北京でも日本の放送は聞こえましたからね、日本の放送からもいろんなニュースを仕入れたんでしょうね。で、開幕の音楽がインターナショナル。これもソ連からちゃんとテープが来ていた。インターナショナルがかかって、「日本の皆さん今晩は、こちらは自由日本放送局です」と始まるんです。最初は30分間じゃなかったかなあ。うん、そんなもんだと思いますよ。中身はニュースと解説ね。それで解説は伊藤律が書いたり、幹部の誰かが分担して書いたりですね。それで録音が終わると、さーとまた邸宅に引き揚げる。

Q)自由日本放送の第一声は、メーデー事件(1952年5月1日、警官とメーデー参加者がぶつかり、乱闘になった)の日の夜だったそうですね。メーデー事件を大きく報道した5月2日の大手新聞各紙には、小さなベタ記事ですが、例えば「なぞの放送始まる 共産系宣伝“自由日本”」(朝日)というような、ラジオプレス通信社からの記事が掲載されていました。藤井冠次さんの著書に出ていたので確かめてみたら、朝日、毎日、読売ともに扱っていました。一番詳しかったのは読売新聞です。一面に次のように書かれていました。

《東京で傍受したところによれば一日夜から「自由日本放送」と称する共産系の日本語放送が開始された。同放送は毎晩八時三十分から九時まで行われ、一日夜は「日本共産党のメーデー・スローガン」「世界労連のメーデーに対するメッセージ」「日本国民は必ず勝利するー解説」などを放送した。なお同放送局の所在地は不明であるが、周波数一一・九メガで毎日定期的に行われるところからみても日本国内ではなく、北京、平壌(ピヨンヤン)またはハバロフスクとみられている。》

北京からということは知られていなかったのですね。

横田)北京放送局からのその日本語放送は1日30分?

A)30分ぐらいだったよ、1日。そのかわり毎日ね。

Q)短波で毎夜日本時間の20:30~21:00の30分間。ニュース10分、ニュースコメント5分、解説10分というのが基本構成だったようですね。そしておよそ1年後に中波放送になって、歌や文芸、音楽なども入り、早朝に再放送があったり、夜に活動家向けの学習の時間なども盛り込まれていたようですね。

A)藤井君もそうなんだけど、彼はNHK出身だからね、僕らもまあ芸能関係の人間として、日本のラジオをだいぶ聴いて育ったから、ラジオと身近な関係にあったから、どうしても日本のラジオと比べてしまう。それでもうちょっとバラエティに富んだものにしようじゃないかってんで、しばらくして後続の応援として文芸物の要員が来ることになったんですよ。やっぱり人民艦隊で。日本から。その中に、同じ東宝演技者集団にいた島田恵一夫妻という、老優、ベテランの俳優さんがいたんです。他には、NHKの、名前度忘れしたけど、解説の専門家。それから音楽家も。この音楽家は東宝関係の旧知のアコーディオン奏者でね、渡辺さんというご夫婦。そうやって人民艦隊方式でだんだん増えてきて、島田恵一さんは文芸関係の原稿を主に手がけた。この島田さんの僕に対する最初の一言が、「お父さん死んだの知ってる?」「えっ?」。彼らは演劇者集団関係で僕の父親が死んだってことを知ってたわけ。僕は日本との音信が全然ないわけだからさ、何も知らない。島田さんは僕が知らないってことを知ってびっくりしてた。

Q)さすがにその時は後悔しました?

A)どうしようもないって感じ。うん。どうしようもない。こればっかりは。ただ、後のことは心配するなって言われてたからね。後のこと、葬儀も含めて弟のこともね、やっててくれただろうと、そういう風に信用するしかなかった。実際はそうじゃなかったけど。
アコーディニストの渡辺さんていうのはねえ、メーデー事件の参加者なの。人民広場で警棒で頭を殴られてね、いったん悪くして、それで来た人なんだよ。なべちゃんなべちゃんって親しくしてた。彼らが来て、それでだいぶ放送が豊かになった。文芸物が増えたり音楽が増えたりしてね。

Q)ところで、その北京放送は、日本で一般の人に聞かれていたのでしょうか?

A)毎日の放送内容を、同じ名前の「自由日本放送」という印刷物にして販売してたところがあったようですよ。どこまで放送に効果があったのか、大衆運動にどれだけ影響力を持ったのか、まあ眉唾だと思いますけど。想像で言えばね。

Q)そしてこの自由日本放送は1955年12月31日に役目を終えるのですが、河崎さんご夫妻はその前にすでにモスクワに移ってしまわれるわけですね。でもそのお話の前にもう少し北京でのことを伺います。その頃の生活って、お給料か何かあったのですか?

A)何もない、何もない。任務に忠実に、ちゃんと食わしてもらって、仕事やって会議に出て。だいたい自分で街に出て買い物したってことないもの。ただよく理由は分からなかったけど、一度だけね、外出の許可が出たことがあって、街のフートンの、どっかのレストランで食事した。毎日毎日おなし弁当食ってるんじゃなくて、変わったものを食べたいなと、中国料理を食べたことがある。いっぺんだけ。

Q)二年半ぐらいの間にたった一度? しかも中国料理を? 美味しかったですか?

A)そりゃあ上手かった! もちろんそりゃあ上手かった。どんな料理だったか全然覚えてないけど、あれは美味しかったなあ!

Q)普段は、若い中国の青年男女が、日常生活のあらゆる面倒をみてくれたのですね?

A)あらゆる面倒。自分で洗濯した覚えさえないんだからなあ。どうだったんだかなあ。

Q)藤井さんの著書によりますと、取り仕切っていた伊藤律の命令で、個人の外出や私語さえ禁止されていた、非合法の組織原則が敷かれて守らされていた、ということですね? まるでホテル住まい、というより、そこまで管理された日々の生活だったわけですね。

A)ただ寝るとこ決まっていてね、会議やってね、放送局に行ってね、その繰り返し。機械的なそういう生活。

Q)それも辛いですね?

A)そりゃもう。そんな生活がずーと続いていたんですよ。そしてその北京の生活の中で悪い意味で印象に残ったのが、組織の中の人間の思考方法。

Q)何があったのですか?

A)あるとき、アコーディニストのなべちゃんが入院する騒ぎが起きたの。そのとき、僕にとっては嫌な記憶になった出来事があった。なべちゃんの入院について、活動家メンバーで集まって、職場会議をはじめたわけ。ある活動家がさっそく演説をぶった。「われわれは、この人民中国でいま仕事をしている。彼(なべちゃん)がどうなるか、少なくとも私たちは、人民中国、中華人民共和国、中国共産党を信用しようではないか」。僕はちょっと待てよ、と手を挙げた。「そりゃあ共産党は援助してくれるのは分かるけど、だけどね、病気っていうのは医学や科学と関係があるんだからね、病気がよくなるかどうか、それはどういう診察をするか、どういう治療をするか、それによってしか今から結果を予期できないんじゃないの。だからわれわれにとって今一番できることといったら、残された奥さん、夫婦で来ているからね、奥さんの相談相手になってあげたり、もし万一のことがあったら皆で支えてあげる、それが大事なことなんじゃないか」そういう言い方をしたらね、その活動家が僕にこう噛み付いた。「おまえは中国共産党を信用していないのか!」って。そういう発想になるのよ。そういう固定した機関の中で暮らしていると。ちょっと嫌な記憶だね、これは。組織と人間の関係で言えばね。

Q)政治的な発想しかできなくなってくるのですね。

A)貴重な体験。人間にはそんな弱点が生まれ得るってこと。今こうやって何でも喋れる世界にいてもね、そういうこともあり得るだろうと。いい教訓になりましたね。で、なべちゃんは治って帰って来たの。いい塩梅にね。

Q)ところで自由日本放送を取り仕切っていた伊藤律のことですが、それから凡そ30年後の1980年になって、9月3日ですが、突然、中国から帰国しました。しかも車椅子で。そのニュースに接したときの衝撃と騒ぎは覚えています。そのときの報道によると、伊藤律は日本共産党内部の問題で、北京機関にいた1952年の12月、野坂参三や西沢隆二によって告発され、中国公安の手で拘束されました。そしてスパイという罪名を被せられて日本共産党から除名され、それから30年近くも身柄を中国の獄に閉じ込められていたわけですね。河崎さんは、伊藤律が連行されたその日のことをご存知だそうですね?

A)人が増えて手狭になったから、僕らは胡同から新しいところに移ったんですよね。そこには2階だか3階建てのレンガ造りの立派な建物があってね、棟もあっちこっちにあって、そのひとつの棟の2階か3階で、伊藤律は僕らをいつものように集めて、何か会議のリーダーをやってたわけね。演説ぶったりなんかしながらさ。だけど喋りながらね、しきりに窓の外を見てるわけよ。何だろうと思ったら、その時、中国の、あれ何ていうんだ? 紅衛兵じゃなく、ああ公安関係だ。公安の車がすーと別棟の入口に来てね、彼がすごく心配していたその様子をよく覚えています。それが最後の彼の印象。もちろん車は向こうの棟の1階に着いたわけね。彼はこっち側の2階だか3階の部屋で僕らを指導しながらしきりにそれを気にしてて、でその後どうだったかはよく分かんないんだけど、とにかく彼はそこで捕まっているわけね。だけど彼のその後の運命については僕は知らなかった。

Q)伊藤律を重用していた徳田球一はすでに重い病の床にあって明日をも知れない病勢。伊藤律は野坂参三と西沢隆二からの査問を受けていたようですね。それで翌1953年9月の「アカハタ」で日本共産党からの除名が発表されました。罪名は「スパイ」。

A)ゾルゲ事件の関係でしょ?

Q)太平洋戦争開戦直前の1941年10月に、ソ連のスパイだったとして、ドイツ人新聞記者のリヒャルト・ゾルゲや朝日新聞記者だった尾崎秀実が逮捕され、3年後に処刑された事件ですね? なぜ戦後もそんな時期になってから、しかも在外の秘密機関で、そのような査問が必要だったのか、外部の人間には理解できませんが、皮肉にも、1992年になって、査問した当の野坂参三が日本共産党から除名されてますね。スターリン時代に同志を売ったスパイだったと認定されて。

A)その頃は、ゾルゲ事件なんかの彼の背景っていうのは、全く僕らは知らなかったからね、彼がなんで窓の外をきょろきょろしてたのかなってことと、僕らの前からぷっつりと姿を消したってことしか知らないわけ。でその後、いわゆる北京機関の指導をしたのは、ぬやまひろし。西沢隆二ね。他にいなかったんだから。

Q)野坂さんはそういう場合どんな態度をとるのですか?

A)野坂さんは、あんまり表面に出さない人なのよね、あの人、不思議に。あちらこちらと待機姿勢で「まあま、まあま」と、そんな感じの人でね。だから何でもなけりゃ黙っていたのかも知れないしね。

Q)河崎さんが北京に着いた最初の年、1952年は、伊藤律の拘束で終わり、翌53年にはまたいろいろな出来事が起こるわけですね。国際的にはスターリンの死も。

A)北京機関では徳田球一の死亡と、僕にとってはブカレストの平和友好祭への参加が大きいですね。非公然から公然に一歩だけ近づいた旅だった。

Q)では次回、じっくりとその辺のお話を。

帰国直後の伊藤律氏~TV朝日『父はスパイではない!』より

帰国直後の伊藤律氏~TV朝日『父はスパイではない!』より

北京時代の徳田球一と野坂参三~TV朝日『父はスパイではない!』より

北京時代の徳田球一と野坂参三~TV朝日『父はスパイではない!』より