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活動報告

オーラルヒストリー 河崎保氏に聞く②

2015/05/14
宇野 淑子(ナレーター/常務理事)

映画演劇など我々の身近な世界の先輩たちに、激動の20世紀をどう生きてきたのか、その波乱に満ちた人生体験を語っていただくオーラルヒストリー。河崎保氏の2回目である。河崎氏は元東宝映画の俳優。聞き手は日露演劇会議会員の横田元一郎と宇野淑子。文責は宇野。

Q 前回は、中学生のとき肋膜炎で入院したことがきっかけで映画の世界に目を開かれ、終戦の年に東宝映画に入社、戦後の最も大きな争議の一つと言われた「東宝争議」を、映画人らしく極めてクリエイティブに闘った、そこまでの体験をお話しいただきました。
では河崎さんがそもそも組合活動に精を出すようになった、そのきっかけは何だったのですか?

 雰囲気、雰囲気。だって戦争が終って、もう新しい世界が生まれた、その印象ね。新しい時代が来たという印象。それは体験していない人にはわからないかも知れないけども、例えば戦後にあちらこちらに社会主義国が誕生した。そういう国に対する親近感からいろんな友好団体が生まれたでしょ? 日ソ協会とか、日朝協会、日中協会など。そういう社会的な雰囲気があったの、背景に。資本家と労働者は対等なんだという意識が芽生えた時代だから。敗戦の年の12月に結成された東宝撮影所従業員組合は、その中で最も先進的な労働組合として育っていって、翌年には日本映画演劇労働組合という1万人を超える最大規模の産業別労働組合を作っちゃったわけですよ。

Q その産別組合は結果として東宝争議で指導的役割を果たしたのでしたね。やはり戦後の空気は、その解放感は特別だった?

 やっぱり新しい世界が到来したなって感じでしたね。僕はまずは青共(青年共産同盟=現在の民青)に飛び込んだ。共産党へ入ったのは少し遅いんです。というのは、当時の撮影所の演技科の課長が共産党に真っ先に入ったわけ。意地悪い見方をすると、共産党に入るのさえ、当時の社会的な雰囲気の反映で、そこに自分の利害関係を乗せながら計算している。今はものを自由に考えられる時代だけど、そういう雰囲気は今だってどっかにないとは言えないよね。どちらが得かどちらが有利かと損得を計算する。例えばある組織にいる人、ある団体にいる人は、やっぱり団体の思惑、団体の考え方や方針をどっかで意識しながら、自分の言動を決めていったりすることあるでしょう?

Q そうするとその当時は共産党に入ることが一種のステータスで、流行だった?

 そうですよ。だからね、何割占めたのか知らないけど、従業員のおそらく1,2割は共産党員じゃなかったのかな。数は知らないし、僕は幹部じゃなかったから正確なところはわからないけどね。ただ山形雄作とか、山本薩夫とか、有名な監督やシナリオライターたちが幹部にいるし、黒澤明さんも組合寄りだったんですよね。組合活動はあまりしなかったけど。今井正もそうだし亀井文夫もそう。そういう雰囲気の中でさ、乗り遅れまいとする気分だって生まれるじゃない。さっき言ったように演技科の課長が共産党へ入っちゃったわけね、そうしたら役者どもの中で続々入党するやつらが出て来たわけ。入党すれば役が付くだろうという思惑。でも後に2・1スト禁止令とか、レッドパージで共産党が弾圧を受けて、分裂が起きて、今度は直接GHQの圧力が、日本の労働運動にかかってきたんだよね。するとばたばたとあちこちが潰れて行く。あの時代に一斉に入党した俳優どももどんどんどんどん抜けてっちゃった。それを見ていてね、これは情けねえなーという感じがしたね。また一方ではいい経験になりましたけどね。

Q 労働運動の高まりの中で、1947年2月1日に予定されていたゼネストが、マッカーサーの命令で直前になって中止に追い込まれた。それはGHQが占領政策、民主化と非軍事化という大方針を転換した、いわゆる逆コースの始まりを告げていたわけですね。河崎さんが東宝組合の中で青年リーダーになっていくのは、ただ単に時代の空気に乗ったというだけでなく、やはり何か正義感みたいなものがおありだったのでしょう?

 いやそんな勇ましいわけじゃないですよ。正義感というのは大袈裟だけどさ、青共が掲げたスローガンとか、青年こそが時代を担うリーダーだという、そういうアピールがやっぱり受けたんだな、自分の心にね。僕は早速機関紙、ガリ版刷りの機関紙を出した。2色刷りですよ、赤と黒。しかもタイトルが、どこか遊びというと変なんだけどね、多角的にものを見ようとする、というのもちょっと恰好付け過ぎかな。とにかくそのガリ版刷りの機関紙に「黄色い嘴」というタイトルを付けた。黄色い嘴だからこそ言いたいことを言えるとか、若いからこそとかさ、そんなことを考えたんだな、恐らく。このことを、当時美術監督だった宮森繁君(後述)が後々凄く褒めてるの。しゃれた題名を付けたって、凄く褒めてくれてますよ。

Q 「黄色い嘴」にはどんなことが書いてあったんですか?

 それが全然残ってないわけ。海外亡命(後述)で僕らが日本に置いてったものが全部なくなっているから。撮影所や青共運動の中のエピソードとか、こういうことをしよう、ああいうことをしよう、なんていろんなことを書いてあったはずなんだけどね、組合員の中の青年たちに読んでもらおうと思って。例えば組合の婦人部の集まりに行くでしょ? 僕は青年共産同盟の、東宝班の責任者の河崎というものですけど、こんど刷った新聞、どうかご覧になって下さい、よろしかったら入りませんか、とか言ってね。そう話しかけるとガバっと入ってくる、女の子たちが。そういう雰囲気だったのよ。

Q ハハハ、結構かっこよかったんですよ、河崎さんが。

 それもあるかも知れない、ハハハ。

Q 河崎さんはどこかクールだから、結構もてたのでしょうね?

 うちのカミサンもそれに惚れた感じもあるんだね。後で本人から聞いたんだけど、集会や演説に一緒に行って何に感激したかというと、集会場に上がるとき僕は下駄を脱いで上履きに履き替えて上がった。それに感激したっていうんだね、彼女は。僕はただ貧乏で靴を持ってなかっただけなんだけど。

Q そういうことに全然拘りがなくって、何か凄い男っぽい、バンカラというか、そういうのに魅かれる女心はわかりますね。

 僕もどっちかといえば彼女に関心持ってたからさ。彼女はね、武蔵野出身。武蔵野音大。やっぱり青共に入ってて、歌唱指導で応援に来ていたわけね。であるとき、「僕のことどう思ってる?」他人事みたいにちらっと聞いたわけ。「好きよ!」あの人は率直な人だから。そしてやがては結婚することになるんだけどね。

Q ハハハ、ご馳走様です。結婚なさったのは1950年。その前に、1947年に日本共産党に入党してますね? 入党ブームには距離をおいていらしたけれど、ゼネストの中止なんかもあって、何となく時代が怪しくなりそうだったから? 誘われて?

 もちろんそうでしょうね、幹部から。もともとその気はあったわけですからね。

Q 口説かれた?

 詳しく覚えてないけど、たぶんね。

Q 本格的な東宝争議に入る前夜っていう時期ですね。東宝という映画会社の組合が、戦後の民主主義運動の高揚の中で、文化産業の組合として何を掲げていたのか、また東宝争議をどのように闘ったのかについては、前回「オーラルヒストリー①」でお話いただきました。河崎さんはあの頃はすでに日本共産党員として闘っていらしたんですね。

 そうです。これもお話しましたが、48年の争議の後、解決金で山本薩夫の「暴力の街」が出来て、青年運動のリーダーだった僕も、学生運動のリーダー役で出ている。この映画は朝日新聞の本庄事件を題材にしてるけど、実際に撮影現場でもそこの暴力団の邪魔が入ったんですよ。

Q 暴力団と行政の癒着を暴いた記者が暴力団に襲われて、その事件をきっかけに、新聞社も、やがて住民たちも、暴力団追放に立ち上がったという、今の埼玉県本庄市で1948年に実際に起きた事件ですよね。

 そうなんです。実際の暴力団の邪魔を受けながら撮影を完了したんだけど、それが封切られたのは50年。50年は大変な年なの。

Q 逆コースが本格化して、レッドパージが始まった年ですね? 東西冷戦が厳しくなって、日本を防共の砦にしようと考えたアメリカが、民主化や非軍事化という政策を転換、日本共産党員とそのシンパと目された人々を、公職や企業から追放しました。

 日本共産党自体も指導層が分裂した。朝鮮戦争も始まった。赤旗が発禁になった。演技者たちもその時代にどんどん党を止めていった。そういう最中に、11月に、私たちは結婚しました。これがその写真で、組合結婚。

「組合結婚」だったという河崎夫妻の結婚式の写真

「組合結婚」だったという河崎夫妻の結婚式。

Q うわー、美男美女ですね!

 仲人して下さったのが、青年劇場とちょっと関係が出て来るんだけど、土方与志さん。演劇界の重鎮ですね。築地小劇場を自費で作った方ですよ。37年にソ連から追放されて帰っていた。

Q 土方与志さんは、1924年に、小山内薫と一緒に日本で初めての新劇、リアリズム演劇の築地小劇場を開設した方ですね。そう言えば青年劇場の劇団名には秋田雨雀・土方与志記念という冠が付いています。

横田 土方さんとの接点はどこで?

 土方さんが舞芸、舞台芸術学院にいた頃、うちの彼女も舞芸に入っていたんですよ。土方さんは1948年の9月、ちょうど東宝争議の年に舞台芸術学院の講師になっている。そして1950年に土方さんは、三島雅夫らと演劇研究会「1950年の会」を作る。そこに何で僕が誘われたのかよくわからないんだけど、まあ、恐らく、労働運動青年運動の関係で、三島さんなんかが僕のことを知っていらっしゃったのかも知れない。声をかけられたいきさつは覚えてないんですけどね。「1950年の会」ではあちこちで勉強会やってましたね。しかもそれはソ連の演劇システムね、スタニスラフスキーシステムを中心にした勉強会なんかをやっていたんです。

Q それで河崎さんも土方さんと関係ができたのですね?

 そうそう。そしてちょうどその年に僕らが結婚した。土方さんに仲人になっていただいた。その頃はね、東宝で仕事が出来なくなった監督たちが、東映とか東横とかで映画を撮っていたの。僕がそういう勉強会に顔を出していると知った監督たちが、今度出演しないかと声をかけてくれた。その一つが、「わが一高時代の犯罪」、東映で撮ったこれは関川秀夫さんだね、これに僕は出ています。やはり関川さんが東横で撮った「きけわだつみの声」、これにも出演している。

Q 東宝所属ということでなく?

 じゃなくてね、演技者集団というのを作ったの。事務所は東宝撮影所の中に作ってもいいですよ、というのが争議妥結のときの条件だったから。外で仕事する監督たちもそんな僕らの存在を知ってたから、いろいろ声もかけてくれた。少しずつ役も回ってきていた。その中に関川秀夫さんの「きけわだつみの声」や「わが一高時代の犯罪」があった。「きけ~」はビルマ戦線の話で、最後に自爆して死んじゃう役なんだけどね、あのときの歌も評判は凄くよくて、関川さんからはその後も声がかかりました。それから今井正さんからも「やまびこ学校」にでないかって言われて出演したりもしました。

Q 映画俳優として順調にキャリアを重ねつつあったのですね?

 題名も、その映画が出来たのかどうかも覚えてないんだけど、関川さんからは、この次は中国を舞台にした映画を撮りたいからと、映画の中で頑張る役、それを予定しているからと、僕で。そういう出演の交渉が実際にあったんですよ。ところがちょうどその頃ね、例の50年問題が起きた。

Q レッドパージや指導部の分裂で日本共産党が存立の危機に見舞われたのですね? それが河崎さんにどう影響して来るのですか?

 まず共産党のことだけど、GHQの弾圧とレッドパージで公職追放された徳田球一や野坂参三といった幹部たちが、みんな地下に潜っちゃったのね。東宝争議で馘首された20人も。彼らはその後専従として組合運動に従事していたんだけど、地下活動に入らざるを得なくなった。何てったって機関紙の「赤旗」が、発行される度に発売禁止になっちゃったんですよね、あの頃。もう文章的な宣伝活動は出来なくなった。おまけにこの年の初めにコミンフォルムから批判されて、日本共産党の指導部が分裂状態になっていた。

Q コミンフォルムはスターリンが作った共産党や労働者党の情報機関ですね? 戦後の日本共産党は、占領軍を解放軍と捉え、野坂参三が平和革命論を打ち立てた。1950年の初め、スターリンや中国共産党はそれを批判した。批判を受け入れるべきだと主張したのが宮本顕治など反主流派。徳田球一、野坂参三、西沢隆二、伊藤律などの主流派は、所感を発表して国際的な批判を切り抜けようとした。やがて野坂が自己批判してスターリンの批判を受け入れるのだけれど、党の対立状態は熾烈なまま残り、レッドパージの後、主流派だけが地下に潜った。それが日本共産党の「50年問題」ですね。

 ここから僕らに関係してくるんだけど、あの元東宝の美術監督、宮森君ね、宮森繁。彼も地下活動の専門家になっていたわけ。で、あるときその彼から僕に呼び出しがあってね、「ちょっと君ら夫婦でね、海外へ密航してくれないか、行き先は北京だ」って。突然ですよ。突然君ら夫婦でったってね、僕には、父の後妻はもう死んでいなかったけど、年金暮らしの親父と、高校1年か2年の弟がいて、後々の生活のことが心配だしね。映画の口も今かかってきているし、と言ったら、「後のことは心配するな、こっちが面倒みるから、安心して行け」と。カミサンもおっちょこちょいだから、こういう話があるんだけどどうって聞いたら、「行こう行こう!」って。「えっ?」

Q 奥様の方が行こう行こうと?

 僕はオヤジや弟のことがあるし、心配だったわけね。貸家に住んでたんだけど、世田谷の。押入れや天井裏には党や青共運動関係の文書なんかを隠してたしね。でも結局は、行くことに決めた。映画出演の話のあった関川監督の方にはね、当時演劇者集団に出入りしていた彼女の口から、僕のことを、今の言葉で言えば、ちょっと認知症だと。神経衰弱か何かで少し頭がおかしくなったんで、あの話はちょっと待って下さい、という風に伝えてもらって。で、ある日あるとき、宮森の話に従って、海外渡航のスケジュールは組まれたわけ。それが大きな次への転機になるわけね。

Q 47年に共産党に入ってからそれまでは基本的にどんな党員暮らしを?

 普通の組合運動ですよ。指導していたのは、東宝撮影所の共産党細胞。党中央の方針通りなんだよ。組合はそう育っちゃった。幹部たちが地下に潜って、僕はごく一般の党員だから、組合活動と青共の活動を一生懸命やっていただけですね。末端はそんな程度ですよ。そこに密航って話が来た。で、行くことになっちゃった。これが人生の節目になっちゃった。

Q その頃地下に潜った徳球(徳田球一)さんとか野坂さんがどこにいるか、ご存知でしたか?

 そんなことは何も知らなかった。宮森から聞かされたのはこういう話。今はお前も知っている通り、共産党機関紙は発行する度に発売禁止になってしまう。あの頃球根栽培法なんて名前で出したこともあったけど、何で球根栽培法だったのかね、笑っちゃうけどさ。そしたら彼はこう言うわけ。文書での組織宣伝はもう駄目だから、これからは海外から、電波でそれをやらなければならなくなったんだと。聞かされたこっちはね、それは大事な仕事と思っちゃうんだよ。そのお声がかかったんだもの。そのアナウンスをやってくれと、二人で。お前ら二人でやってくれと。そういうわけよ。

Q 重要な任務を任されるという高揚感があったのですね?

 親には何と嘘ついたか忘れたけれど、後は面倒見るから心配するなと言われたのを頼りに、何かね、地方公演に行くって言ったのだったかな、とにかく親に嘘をついて、ある日あるとき、東京を去っちゃったのね。切符も買ってくれたんだろうなあ、確かね。

Q 1952年が明けたばかりの頃、29歳だったのですね? 非合法活動中の宮森さんとはどのようにして会ったのですか?

 宮森とはね、新橋あたりで会って、顔は知ってるからねお互い。ずーと道を歩きながら、渋谷方向に向かってね、歩きながらの話なの、さっきの話は。それでどこかで止まって喫茶店みたいなところへ入ったときに、当時の、名前は全然覚えてないんだけど党幹部に会って、その人がじっと僕の顔を見てね、お前ら大丈夫だろうな、みたいな話をして。向こうは僕を確かめたんだろうと思う、どんなやつかっていうのをね。そんな大して深い話はしなかった。僕を確かめさせるために、宮森が会わせたんだろうね。
それでその後の手続きがどうだったか忘れたけど、少なくともある日汽車に乗って、京都に行ったんですよ。そしたらちゃんとこれが手配が出来てて、すーと、ある薬屋さんの住宅に入れられたわけ。その薬屋さんというのは後で考えると、共産党のシンパだったらしいの。その人の家にまずは一泊させられたわけね。そしたら、京都にいるまた別の幹部というのが来てね、その晩だったか次の日だったか忘れたけど、夫婦っていうけど、お前らほんまの夫婦やろな、と。夫婦と嘘ついて作った組み合わせかと思ったんだろうな。ほんとですよ。よしわかった。大した話もしないで、それで次の日、また汽車に乗って、ゴトゴトゴトゴトと九州へ行って、今みたいに新幹線なかった頃だからね、時間かけて九州の長崎まで行って、それから更に五島列島まで運ばれて、五島列島のちっぽけな旅館に1泊したわけ。そしたら別のルートをたどって、藤井冠次という人もそこに現れた。

元NHK報道記者、藤井冠次氏の著書『伊藤律と北京・徳田機関』の写真

元NHK報道記者、
藤井冠次氏の著書『伊藤律と北京・徳田機関』

Q ああやっぱり。NHKの報道記者だった藤井冠次さんが一緒だったんですね? 著書『伊藤律と北京・徳田機関』に密航の件も詳しく書いてあります。

 彼とは五島列島で会ったわけ。本によると、彼らはやっぱり京都かなんかに1泊して、別のコースと日程で五島列島へ来て、そして五島列島で一緒になるわけですよ。彼は出身はNHK。こう書いてある。「一月十二日の夜、私は東京駅から地下潜行の旅に入った。行き先は北京と聞いていたが、出発した当時は五里霧中であった」と。僕らも同じですよ。「この時の同行者は、国際会議出席のための機関要員男女各一名、私を含めて計三名で、途中京都で一泊し、長崎から、放送のためのアナウンサー要員(新劇出身)男女各一名が同行した。船は三十六噸、六汽筒。焼玉エンジンのトロール船で、いわゆる人民艦隊の組織したものであったが、防衛上無線装置はなく、頼るものは羅針盤と海図しかない、おまけに竜骨に継ぎがしてある新造船で、素人同然の船員が操縦してゆくのであるから、出航して三日目、東支那海で暴風雨に会った時は、板子一枚下は地獄の酩酊船(ランボオ)さながらで、生きた心地はしなかった」。僕らは新劇出身ではないけど、そう思っていたんだね。

Q 人民艦隊というのは、当時の日本共産党が編成した、中国や北朝鮮への密航船ですね? 30トン前後の漁船を改造したという。

横田 長崎から五島に行くときも36トンだった?

 僕は五島を出るとき初めてこの船に乗った。しかも船に乗ろうとするときにね、一生懸命火鉢の炭か何かで顔を汚して、汚くしたことを覚えている。荷物は大してなかった。持って行っちゃあいけないしね。それでいざ乗ろうとした時、沖の方からポンポンポンポンと湾に入って来た船が、海上自衛隊のちっぽけな監視船だったのよ。乗った途端に「潜れ!」って。みんな船室に潜ってさ。監視船がトントントントントンって遠ざかって、「よかったー!」ってみんなで。

Q 怖かったですか?

 やっぱりね、気になったね。海上自衛隊って言ったかなあ、あの頃?

Q えーと、いやまだです。海上保安庁の船だと思います。自衛隊発足は54年です。

 それで、沖に出たらさっき言った時化。船底の小さな部屋に5人でゴロゴロしたわけ。僕ら5人の他には船員代わりが1人、中国語のできる人民艦隊のリーダーが1人いて、案内役。もう一人、メシ作ったりしなけりゃならないからね、そういう役割の人。全部で8人。そんな船だからもちろんトイレなんかないのよ。どうやって用を足したかっていうとね、船の尻尾に2本柱が出てる。こっち側に掴まって、海に向かって、後ろ向いて。

Q 女姓は奥様と…?

 男女各1名の国際会議出席者がいたから女性は2名。女性が用を足すときは「男ども甲板へ上れー」って声がかかって、女は火鉢を使った。そこに用を足した。男は海へ。水洗だった、男は。
僕は3日3晩だったと思うんだけど、彼(藤井氏)は1週間かかったと書いてある。ま、とにかく、船は無事に着いたのよ。そこは上海。みんなで「着いた着いたー!」ってね、揚子江をどんどんどんどん上ってったの。

Q いよいよ革命直後の中国、中華人民共和国に足を踏み入れたのですね。ではその話は次回に。(つづく)

若き日の河崎保氏。職場集会での一コマ

若き日の河崎保氏。職場集会での一コマ。