オムスク国立第五劇場『33回の失神』 を見て
なにごとにも、ふたつの方向のアプローチがあるものだと思う。内面的なアプローチ、リアリズムで知られるスタニスラフスキーと、身体的なアプローチ、反リアリズムで知られるメイエルホリドは、ひとつの典型と言えるだろう。
第五劇場の『33回の失神』では、開演前、舞台は左右に開く幕で覆われ、その幕の上に「アントーシャ・チェホンテ」の名が投影してある。高尚な文学者チェーホフのではなく、ユーモア短編作家でボードビルを愛したチェホンテの作品としてこの舞台を見てほしいという、はっきりしたメッセージだ。
オープニングは、その幕の間から狂言回し的なキャラクターが顔をのぞかせる。きつめのメイク。バットマンに出て来る悪役のようだ。これだけでもう、この芝居はスタニスラフスキー的なリアリズムではなく、芝居小屋的な反リアリズムで演出されていることがわかる。
だが、若い俳優である彼は客席をつかみきれない。同情すべきである。セリフ劇である「煙草の害について」を言葉のわからない客席相手にやらなければならないのだ。
芝居がはじまり客席の期待(予想?)は裏切られることがない。衣裳も非現実的。登場する「馬」や「犬」、すべてがつくりものらしさを強調している。スピーディーな動き、そして合間にはさまる歌と演奏。カラフルで楽しい舞台だ。ぼくは、80年代タイニイ・アリスでの遊◎機械/全自動シアターを思い出した。
主役の一人、「熊」のスミルノフを演じるセルゲイ・ズベンコが出てきて、舞台はぐっと引き締まる。彼は客席にきまり悪い思いなどさせない。彼が出てくると、観客は俳優から客席が見えていることを忘れ、それから自分が存在していることを忘れる。そして、ただ物語を見る目になる。
というわけで、つつがなく二時間ほどの時間がすぎ、幕がおりた。面白かったか?はい。勉強になったか?すごく。他人にも観劇をすすめるか?たぶん、まあ……。
つまり、もの足りないのだ。(ぼくにとっては。)だがなぜ?
昨年、惜しまれながら最終回をむかえたM-1グランプリは、この大会自身の象徴ともいえるような笑い飯が有終の美をかざって優勝したが、衝撃的だったのは二位となったスリムクラブだった。M-1の勝利のセオリーは4分間のなかにどれだけたくさんの笑いを入れられるか、その密度を上げることだと、ずっと言われてきたのに、スリムクラブはその正反対を行く、ものすごくゆっくりした漫才だったのだ。
ハイスピードでたたみかける漫才は客席に笑うことを押しつけるが、超のつくほどおそいスリムクラブのドラマには観客の側が引き込まれ、ほんのちょっとのことでも、ものすごくおかしくなるのだ。
人間は、しずかでゆっくりした状況の中で感受性が高まり、ハイスピードで刺激が多い状況では鈍感になる。ぼくは「チェーホフ」の静劇には観客の感受性を最大限に高めさせる力があるように思う。その中では、ほんのちょっとのことがたまらなくおかしい。一方、第五劇場のボードビルっぽい劇づくりは、つまりハイスピードなM-1の漫才のようだ。たしかに楽しい。だが……
今回の公演が、チェーホフにはこんな面もあったんですよと客に教えることが目的だったのなら、それは達成されたろう。メイエルホリドがチェーホフを演出するとこんな感じになる、というのも間接的な形でだが、伝わった。
それにしても、そのスピーディーな演出のなかで、芝居のテンポはけっしてこわさずに、自分の内的なテンポはゆったりと、観客を引きつけたズベンコは秀逸だった。