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ブルガーコフ・ブーム到来!

2011/01/12
大森 雅子

『ブルガーコフ作品集』

『ブルガーコフ作品集』

『巨匠とマルガリータ』(1928-1940)や『犬の心臓』(1925)で有名な、20世紀ロシア文学を代表するミハイル・ブルガーコフ(1891-1940)は、ロシアの人々に非常に愛されている作家である。このことを身をもって実感したのは、2005年にモスクワに留学中のことだ。

2005年という年は、1988年に『犬の心臓』を映画化したことで定評のあるウラジーミル・ボルトコ監督が、『巨匠とマルガリータ』のテレビドラマを製作した年でもあったが、放映決定のニュースが流れるやいなや、ロシア国民の期待は一気に高まり、テレビや新聞で撮影の進捗状況などがさかんに報道された。私は、全10回シリーズ、約500分にわたってテレビ放映されたこの作品をリアルタイムで観る機会に恵まれたが、その時のモスクワ市民の反応を直接感じることができたのは貴重な体験だった。放映翌日の大学構内は、毎日このドラマの話題で持ちきりだったことを今でもよく覚えている。このテレビドラマの評価は賛否両論あった(黒猫のベゲモートが着ぐるみなのはどうか、とか、ピラト役の俳優が年を取り過ぎているetc…)が、ブルガーコフの長大なテクストを忠実かつ丁寧にシナリオに取り込んでいた点、そして小説の舞台である1920年代末から30年代のモスクワの雰囲気を伝えようと工夫が凝らされていた点は、大いに評価してよいと思う。

一方、日本はどうかというと、さすがにロシアのような熱狂ぶりは見られないが、近年、静かな「ブルガーコフ・ブーム」が到来し、彼の文学にアクセスしやすい環境が整ってきた。2008年に出た『巨匠とマルガリータ』(水野忠夫訳、河出書房新社)を皮切りに、同年には上述したボルトコ監督の映画が、日本語字幕付きのDVDとなって、IVCから発売されている。2009年には戯曲集『アレクサンドル・プーシキン/バトゥーム』(石原公道訳、群像社)と『ブルガーコフ戯曲選集』(真木三三子訳、七月堂)が出版された。『巨匠とマルガリータ』には既に4種類の邦訳がある(安井侑子訳、水野忠夫訳、法木綾子訳、中田恭訳)ものの、戯曲の翻訳紹介はそれほど進んでいなかったのだが、生前のブルガーコフは、どちらかというと劇作家として有名であったことを考えれば、今回の2つの戯曲集の出版は、特に日本の演劇界にとって喜ばしい出来事だったのではないだろうか。『アレクサンドル・プーシキン/バトゥーム』には、本のタイトル通り、2つの作品が収録されている。『アレクサンドル・プーシキン』(1935)は、決闘によって命を落とすまでのプーシキンの最期の日々が、そして『バトゥーム』(1939)では、若きスターリンの革命運動について描かれている。また、『ブルガーコフ戯曲選集』では、革命後の内戦に巻き込まれるインテリゲンツィアの悲劇がユーモアとペーソスを交えながら展開する『トゥルビン家の日々』(1925-26)と、1920年代ソヴィエトのネップ(新経済政策)期に様々な欲望を抱きながら生きる人々を滑稽に描き出した『ゾイカの家(原題はゾイカのアパート)』(1925-26)、そして16世紀のイワン雷帝と1930年代ソヴィエトのアパート管理人がタイムマシンによって入れ替わるという喜劇『イヴァン雷帝2人(原題はイワン・ワシーリエヴィチ)』(1934-35)の計3作品が読める。特に『ブルガーコフ戯曲選集』には、詳細な訳註と解説がつけられており、戯曲が執筆された時代背景だけではなく、ブルガーコフのテクストが生成された創作過程についても知ることができて興味深い。また、同年の2009年には、『季刊iichiko』という雑誌で、2号連続(第103号と第104号)でブルガーコフ特集が組まれ、ブルガーコフに関する研究論文やエッセイ、また彼の短篇作品の翻訳等が掲載された。さらに、同誌で取り上げられたブルガーコフ作品の翻訳を中心にまとめた単行本『ブルガーコフ作品集』(宮澤淳一・大森雅子・杉谷倫枝訳、文化科学高等研究院出版局)が、昨年2010年に出版されている。この作品集には、これまで翻訳されることが少なかった創作初期の掌編の他、自伝的な主人公の医師がモルヒネ中毒となる短篇『モルヒネ』(1927)やモリエールの最期を描いた戯曲『偽善者たちのカバラ』(1929)、さらに『巨匠とマルガリータ』の初期稿等の資料が収録されており、幻想作家・劇作家としてのブルガーコフの原点に光が当てられている。2011年以降も、この「ブルガーコフ・ブーム」の火が絶えることなく、静かに燃え続けて欲しい―これは、ブルガーコフという作家を十数年追い続けてきた私の切なる願いでもある。

さて、ロシアの話に立ち返ってみると、現在もブルガーコフの作品集や研究書は毎年のように出版され続けているし、劇場のレパートリーにも彼の名は健在だ。なかでも、2009年にマールイ劇場で初演された『モリエール』(『偽善者たちのカバラ』と同内容)は、2010年、第8回国際演劇フォーラム「金の勇士Золотой витязь」で金賞を受賞、モリエールを演じたユーリー・ソローミンは優秀男優賞を受賞したとのことで、この芝居は今後ますます注目されることになるに違いない。

マールイ劇場の『モリエール』。右の写真がモリエール役のユーリー・ソローミン

マールイ劇場の『モリエール』。右の写真がモリエール役のユーリー・ソローミン

そして、特筆すべきニュースをもう1つ。2012年には、ペテルブルクのマリインスキイ劇場で、『犬の心臓』のオペラ(アレクサンドル・ラスカートフ作曲、初演は2010年アムステルダム音楽劇場)が上演されることになっているそうだ。『犬の心臓』のオペラ―犬のシャーリクが移植手術を受け、厄介者の犬人間シャーリコフに変身を遂げるというあのSFが、いかなる旋律となって観客を魅了することになるのだろう―2005年の『巨匠とマルガリータ』映画化以来の興奮を予感させる、ロシアの息の長い「ブルガーコフ・ブーム」にもしばらく目が離せない。