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活動報告

情熱と経済のジレンマ 交流使活動を終えて

2007/07/08
村井 健(演劇評論家/日露演劇会議専務理事)

筆者

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私が初めてロシアを訪れたのは1999年。この時の印象はかなり強烈だった。ロシア崩壊からかなり時間が経っていたとはいえ、まだ経済は十分に立ち直っていず、空港や地下鉄のそこかしこには短機関銃を肩からぶら下げた兵士がおり、そこがまだ「擬制の平和と自由」の中にあることを実感させるものだった。あれから6年。ロシアは変わった。そしていまも変わりつつある。薄紙を剥がすようにという言葉があるが、まさにそれを実感させるのがいまのロシアだ。年々街は明るくなり、モノが増え、活気づいている。市場経済が曲がりなりにも浸透しつつあるのが手に取るように分かる。

その変貌し続けるロシアへ、05年度の文化庁文化交流使として私は出かけた。期間は、38日間。5月3日に成田を発ち、サンクト・ペテルブルク、モスクワ、そして西シベリアの主都オムスク、ノボシビルスクを駆け巡り、再びモスクワに戻り、成田へというコースである。最初は、どうせなら日本人のまだ行っていないところも含め、サンクト・ペテルブルクを起点にシベリアを縦断しようかとも考えた。だが、それだと最低3カ月の活動期間を見なければならず、私自身、諸般の事情でそれだけの時間はさけず、やむなくこの4カ所に絞り込んだのである。

サンクトに着いたのは、夜の10時30分。とはいえ、空にはまだ薄明かりが残っている。そう、ロシアは5月から日ごとに日が長くなり、やがて6月の白夜へとなだれ込むのだが、もはやその予兆がただよっている。6月から7月いっぱいが、ロシアを訪れるなら最高の季節。しかし、これは観光旅行者にとってのこと。演劇人、学術関係者にとっては「無為」の季節となる。というのは、6月にはロシアの学校はすべて卒業試験期間に入り、7月、8月は夏休みになってしまうからだ。これは劇場も同じ。劇場は6月半ばにはクローズしてしまう。再開されるのは9月半ばだ。

私が、ロシア訪問の時期をこの5月に設定したのは、大学や劇場が機能しているぎりぎりの季節を選んだからである。この時期を外すと、ロシア側は、たとえそれが海外からのお客であれ、気もそぞろとなって、事前に打ち合わせたスケジュールがどうなるか分からなくなってしまう。こういうと、まさかと思うだろうが、ロシアとの連絡調整ほど骨の折れるものはない。順調に連絡が取れていたかと思うと、突然、ぷっつり連絡が途絶えてしまう。しかも、平気で予定を変えてしまう。つまりは、実際に現地に行き、確認するまでは安心できないのがロシアなのである。
おかげで、これまで何度苦い思いをしたことか。したがって、ロシアに飛び立つ前日まで私は、メールとFAXをめいっぱい使い、スケジュール調整をしていたのだが、実際のところ、スケジュールがちゃんとこなせるかどうかについては、ずっと不安を感じていた。しかし、今回に関しては、思ったほどの混乱はなく、比較的順調にスケジュールをこなすことができた。比較的というのは、多少の混乱はもちろん、あったからだ。

サンクト・ペテルブルグ演劇大学での講演風景

サンクト・ペテルブルグ演劇大学での講演風景

たとえば、私が日本を発つ寸前に、プーチン大統領が突然、学校に戦勝記念日前後を休日にするように指示したため、講演することになっていたロシア国立サンクト・ペテルブルク演劇大学が急に休校になり、講演の日が変えられてしまったこともその1つだ。幸い、そんなこともあろうかと予備日を用意していたからよかったものの、そうでなかったら、交流使活動は1回消えていたことになる。こんなこともあった。ロシア国立サンクト・ペテルブルク大学に行った時のことである。教室に着いたら、その会場がほかの授業とバッテング。それがやっと解決したかと思えば、今度は、そこにあるはずのビデオ受像機が、職員が風邪で休んだため用意されてなく、参加者ともどもぞろぞろ受像機のある他の教室に移動することになったのである。おかげで、こちらは張り詰めていた緊張が解け、リラックスして講演を行なうことができたのは、怪我の功名といったところだろう。

とはいえ、サンクトでの活動は、なかなか面白かった。サンクト・ペテルブルク演劇大学(写真1)でも、ペテルブルク大学でも、教室には教授からOBはもちろん、現役学生、大学院生までが詰めかけ、2時間あまりのビデオを交えての講演を熱心に聞いてくれたからだ。いや、これはモスクワでも同じ。じつは、この講演用のビデオには、伎楽や能、狂言から現代劇、ダンスまでのエッセンスを詰め込んでいた。冒頭に大太鼓を入れ、大音響で一気に観客の目と耳を日本の舞台芸術に引き付け、その歴史的流れを私が解説し、質問に応えるという演出である。ビデオそれ自体を全部流せば1時間40分はかかる。だから、会場によって、見せるものはそのつどピックアップして30~40分のものとなる。が、これが実に効果的だった。
のっけの大太鼓に面喰らい、それまでロシア人がこれぞ日本の舞台芸術と思っていた能・狂言の前に、その遥かな源流となる伎楽や舞楽、神楽、田楽が出て来る。しかも、それは大陸からやってきた「異文化」であり、その「異文化」との交流の中から日本の舞台芸術が生成発展して来たという意外さ。そして、あまり知られていない現代劇(鈴木忠志、蜷川幸雄、野田秀樹、斎藤憐の作品)と舞踏(土方巽、大野一雄から山海塾まで)、勅使河原三郎のダンスなど、いわば圧縮された日本の舞台芸術の多様なジャンルの片鱗を見、しかも歴史の大筋を知ることができるという刺激が味わえるからだ。終演後、多くの質問が寄せられたことはいうまでもないが、話がつきず、外のカフェに移動し、夜遅くまで歓談したこともしばしばだった。

ロシアと日本の文化交流は年々盛んになって来てはいる。しかし、舞台芸術に関していえば、実際にそれを見ている人はごく少数だ。しかも、その上演されたジャンルは限られている。歌舞伎や能の公演がモスクワやサンクトで行なわれることがあっても、それはたまにのことであり、料金も高い。専門家も多くはない。体系的な解説をほどこした書籍も出てはいない。つまりは、潜在的な関心はあっても、一般にはそれを見、知る機会は限られているということ。私の活動は、その餓えを多少なりとも癒すことになったのである。現に、1つの会場で講演を聞いてくれた人が、次の会場にも現れたり、わざわざ私のところでも話してくれないか、と連絡してくれたこともあった。おかげで、当初予定の12回の講演は最終的には17回にまで増えてしまった(滞在期間が長ければ、この回数はもっともっと増えただろう)。

サンクトでは、プロの劇評家や演出家、画家との交流も行なわれ、ロシア人の舞踏カンパニー(少ないとはいえ、ロシアにも日本の舞踏に影響を受けた集団がある)からの招待もあったが、これは時間がなく受けることができなかった。「ヘンタイ」を名乗るオタク女性にも出会った。ロシアでは「変態」「オタク」ということばが結構知られていて、それを名乗るアニメ・ファンたちが増大している。件の女性もそうした1人だったが、職業を聞いたら、なんと小学校の先生だった。ちなみに、ロシアでいまもっとも有名な日本人は北野武と村上春樹、そして宮崎駿である。

出会いといえば、ペテルブルク大学の講演後、「私の国にも来てくれますか」と声をかけてくれたトルクメニスタンから来ている大学院生がいた。彼女は大学院で日本語を学んでいて、卒業したら日本とトルクメニスタンの文化交流のために働きたいということだったが、彼女とは、私が帰国してから再び日本で会うことになった。外務省のプログラムに応募、05年秋から06年2月まで滞在。日本語と日本文化についての研修を受け、この2月23日に帰国した。せっかくの機会なので、彼女には日本の舞台を見てもらい、ロシア語通訳協会で「トルクメニスタンの文化」についての講演会をお願いした。

館長のボリス・ニコラエヴィチ

館長のボリス・ニコラエヴィチ

モスクワでも面白い若者に出会った。ミール(平和)という名の青年だが、彼はモスクワの映画博物館での講演後、わざわざ自分で撮った私の講演ビデオをプレゼントしてくれたばかりか、講演が面白かったといって、そのお礼に近くの公園のベンチで私の身体をマッサージしてくれたのである。断わっておくが、彼はホモではない。職業が、整体師なのだ。「ぜひ、自分の病院にきて蜂蜜マッサージを受けないか」と誘われたが、残念ながらこれは断わった。が、縁とは不思議なものである。その彼が、昨年暮れにひょっこり日本に現れたのだ。もちろん、盃を交わし、旧交をあたためたことはいうまでもない。しかし、今回の最大の出会いは、モスクワの国立舞台芸術アカデミーGITISでばったり出会ったボリス・ニコラエヴィチ・リュビーモフとの再会だろう(写真2)。

ただし、ボリス・ニコラエヴィチ・リュビーモフといっても演出家ではない。GITISの教授で、ロシアを代表する演劇評論家であり、スタニスラフスキーの研究者である。文化交流使活動の1つとして訪れたGITISで、数年ぶりに出会った彼の現在の肩書きが「国立中央バフル-シン演劇博物館館長」。「ぜひ遊びに来てくれ」との誘いにのり、訪れたその博物館がロシア最大の演劇博物館(写真3)だったのである(収蔵点数150万点)。館長室であれこれ話しているうちに、話題は日本の博物館のことになり、早稲田の演劇博物館のことに及んだ。ところが、意外にも彼は早稲田の演劇博物館のことを知らなかった。そこで、早稲田の演劇博物館のことを説明したところ、ぜひ交流したいという。帰国後、私は、早稲田の演劇博物館に連絡、竹本館長に会い、ボリスの希望を伝えた。そして、昨年12月、両館長の書簡が交換され、日露を代表する博物館同士の交流が始まることになった。これは日露の演劇交流にとって画期的なことだろう。

国立中央バフル-シン演劇博物館

国立中央バフル-シン演劇博物館

サンクト、モスクワでの講演を無事切り上げた私は、5月21日に、次の目的地である西シベリアのオムスクへと飛んだ。夜中にモスクワを発ち、到着したのは翌朝の5時半。モスクワとの時差は2時間だ。

この西シベリア、日本ではあまり知られていない地域だが、私が訪問したオムスクとノボシビルスクは、西シベリアを代表する大都市であるばかりでなく、交通の要衝であり、産業、学術、文化芸術の中心地でもある。にも関わらず、日本で未だによく知られていないのは、この2つの都市が、ソ連崩壊まで軍事産業、交通の要衝であったため外国人立ち入り禁止の「閉鎖都市」だったからである。 特にオムスクは、革命戦争当時、コルチャ-ク提督率いる白衛軍の「首都」ともなったシベリア切っての古都。さらには、あの文豪ドストエフスキ-が流刑された土地でもある(ドストエフスキー「死の家の記録」参照)。一方、ノボシビルスクは、日本の筑波学園都市の見本となったアカデムゴロドクを抱える新興都市。スターリン様式の建物が立ち並び、いまやシベリア第一の都市となっている。

広大な土地と教育の行き届いた労働人口の存在、そして産業と交通の要衝であること。これからのロシアの発展性を考えれば、どう見ても「西シベリア」との交流は今後、日本の経済・文化交流の「臍」になる重要地域である。そこに布石を打つ。これは、文化交流使としての身軽さだからできることでもある。

オムスクでは、国立オムスク大学(写真4)、教育大学、ドラマ劇場、プーシキン図書館などで講演、ちょうど名古屋の万博を視察して帰国したばかりのオムスク州文化庁長官とも懇談した。この文化長官との懇談の時、思わぬことが起きた。長官が「オムスク州ではこれから日本との文化交流に力を入れたい」との意向を示したので、私がすかさず「長官、それには前提があります。まず、オムスクでの日本語教育に力を入れてください」とお願いしたところ、長官は、隣にいたオムスク大学の国際部長にすぐに、日本語教育のための準備調査を行なうよう指示したのである。しかも、この時の私の通訳がノボシビルスクの教育大学の出身者だったことから、ノボシビルスクの日本語教育機関との交流の端緒がたちまちできてしまったのだ。

国立オムスク大学での講演

国立オムスク大学での講演

日本とオムスクとのつながりは、これだけではない。すでに、オムスク大学出版会からは日露演劇会議との協力により、02年に「現代日本戯曲集」が出版され、06年3月にはその第2巻が出版されることにもなっている(国際交流基金助成)し、04年からは同大学で、セゾン文化財団の助成で単位認定の「日本文化講座」も開講しているのだ。また、オムスク・ドラマ劇場は、全ロシアの劇場に先駆けて安部公房の「砂の女」や三谷幸喜の「笑の大学」を上演(同劇場は、 98年に来日、「3人姉妹」や「砂の女」を東京芸術劇場で上演)している。つまり、日本との交流の下地はできているということ。

これは、次に訪れたノボシビルスクでも同じである。同市は、札幌市とは姉妹都市。ロシアの3大オペラ・バレエ劇場の1つ、ロシア国立ノボシビルスク・オペラ・バレエ劇場はすでに何度も日本での公演を行ない、同市にある北海道シベリア・センターは、教育大学と並んで、シベリア切っての日本語教育のメッカともなっているところなのである。 このノボシビルスクでは、シベリア・センター、教育大学、演劇大学での講演を行なったのだが、一瞬焦ったのは、シベリア・センターでの講演の時だ。日本人の身体的な特徴の説明をした後、剣道や柔道の基本的な姿勢(腰の使い方と足運び)を見せ、参加者の青年を指名し、前に出て来てもらった。そして、ちょっと遊んで、足払いと背負い投げを見せようとしたのだが、これがビクともしないのである。ふつうのロシア人なら、腰高もあってすぐによろけるのに、である。これはまずい、と投げをやめ「何かやっているの」と聞いたら「合気道をしています」。足払いはおろか投げが利かないわけである。相手が悪かった!

ちなみに、私の講演は、ビデオと口演が中心だが、じつはその解説の中で、アメノウズメノミコトが出て来たときには、女性に前に出て来てもらい踊りを踊ってもらったり、六方や、摺り足、鈴木メソッドなど簡単な実演をやって見せていたのだが、これが思いのほか好評だった。ロシアの皆さんは、日本人のように引っ込み思案ではない。参加して楽しむことをよく知っている。しかも、知識と情報の吸収にきわめて積極的だ。なかには、「日本人はテン足ではないのか」「能と歌舞伎は同じじゃないのか」という素朴な疑問も出されたが、そうした質問が出されること自体、日本や日本の舞台芸術についての正確な知識、情報がいかに行き渡っていないかの証明だろう。しかし、目の前で映像を見、その背景を説明されると、理解は急速に進む。進めば、当然のことながら、もっと知りたくなる、知りたい分野も広がる。

総合演劇大学GITISの正面

総合演劇大学GITISの正面

嬉しかったのは、帰国後、私の講演を聞いた人から、「大学院での論文のテーマを日本演劇にしました」というメールや、「昨年はノボシビルスク教育大学に来て講演していただいて心から感謝しております。先生の講演は学生と教員にとって勉強になっただけでなく、とても分かりやすく、興味深いお話が印象に残りました。講演のおかげで学生の興味が湧いてきて、今は人形浄瑠璃の『忠臣蔵』を読んでおります」という便りをいただいたことである。また、ロシア最大の総合演劇大学GITIS(写真5)での講演が機縁となり、GITISと新国立劇場演劇研修所との交流も始まりつつある。

民間人が国の助成を受け、自国の文化を海外に伝えるということは、決して単純なことではない。伝えることは問われることでもあるからだ。事実、思わぬ質問を受け、ぎくりとすることもあった。あるいは、日常、なんとはなしに話していること、知ったつもりでいることの曖昧さを思い知ることも。つまりは、交流とは必ずしも一方通行ではなく、常に相互交流でもあるということ。しかもそれを行なうのはロボットでも機関でもない。1人の個人である。ということは、交流の基本は人と人の触れ合いにほかならないことになる。この触れ合いの中から、あらゆるネットワークが築かれる。

問題は、この人と人との繋がり、ネットワークを、どうこれから維持、発展させるかだろう。「行って来た、まる」では話にならない。それではせっかく築いたネットが崩れることになる。たとえば、今回の交流使活動で私は、これまで以上の多くの人や機関と知り合い、友情を結ぶことができた。だが、問題は、この友情の広がりをどう維持するか、である。これは私個人の手にあまることになるかもしれない。なぜなら、このネットを維持、発展させるためには、これまで以上に、頻繁に渡航し、語り合うことが必要となるからだ。そのためにはお金も要る。情熱と経済のジレンマがそこに生まれる。おそらくこのジレンマは、私だけのものではないだろう。良心的な活動をした交流使なら誰でも遭遇するジレンマだからだ。そのためには、次なる施策が必要不可欠のものになる。それは、継続的交流活動への支援、そしてこれまでの活動をも含めた情報・ネットワークの集積とそのバリアフリー化である。ネットも情報も開かれてこその価値。必要とする人がアクセスし、活用できなければ意味がないことになる。

今回、私は日本の演劇文化の多様性とその歴史をロシアで語って来た。いわば、日本文化のセールスを行なって来たことになる。だが、それだけでよいのか。むろん、そんなことはない。交流とは、贈与と交換のことに他ならないからである。とすれば、私たち交流使は、伝えると同時に、一方において吸収することもしなければならないだろう。異文化を伝え、かつ吸収することの双方向性の中にこそ交流使本来のミッションはあるからだ。歓迎されることに酔っていてはいけないのである。向こうが貪欲に吸収するなら、こちらもそうでなければならない。

100年前も、今もロシアは演劇大国である。その基礎を築いた、スタニスラフスキーやメイエルホリド、エイゼンシュティンは、日本の演劇文化(能・歌舞伎)から多くのものを吸収した。そして、いまや世界の演劇教育のスタンダードとなっている演劇教育のシステムを作り上げた。ところが、日本は自国の伝統演劇が愛でられることに自足し、こと吸収に関しては無自覚だった。結果、日本の現代劇はいまだに未熟さを抱えたままとなっている。その根底にあるのは、教育ソフトの欠如だ。だとすれば、その欠けているもの、掴み損ねてきたものを再吸収するのが演劇に関わる者の務めということになる。いや、これは演劇のみに関わることではない。文化全般についていえることだ。先に挙げた施策はそのためにも必要なことなのである。次に繋げるためにも。そして、それは他ならぬ日本の文化力の再構築、未来に直結する極めて大事なことだと私は思っている。