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活動報告

俳優修行を考える  国立サンクト・ペテルブルグ演劇大学でのワークショップから

2004/04/01
菊池 准(劇作家・演出家/理事)

ロシアで学ぶ演技のスタンダード!

[2004.03.06~03.28]

セルゲイ教授を囲んでの夕食会

セルゲイ教授を囲んでの夕食会

3月6日から28日まで(実質の授業期間は8日から24日)日露演劇会議の主催による、「国立サンクト・ペテルブルグ演劇大学」におけるワークショップに受講者として参加してまいりました。ロシアで演劇教育を受けた日本人は少なくないと思いますが、今回のようなグループレッスンを受けたメンバーは私たちが最初だということでした。大学側としては、アメリカや韓国からのグループレッスンは毎年受け入れているのですが、日本人のグループは初めてということで、先生方もかなり緊張なさったそうです。それでも、大学側の責任者セルゲイ演劇大学副学長の熱意もあって、総勢11名という少人数ではありましたが、実りあるワークショップになりました。

それにしても演劇の国ロシアにおける日本人のグループレッスンが初めてというのも情けない話で、日本における俳優教育に対する意識というものを考えさせら れました。もちろんこれには私達自身の問題点も含んでいることなので、今回のワークショップを通して感じた点をいくつか取り上げさせていただこうと思いま す。
俳優教育の問題が取り沙汰されて、もう随分になります。現在あちらこちらで開かれているワークショップの数を見ても、この問題が重要な課題 となっているのは明らかだと思います。私どもの劇団でも、この問題に積極的に取り組んで十年以上が経過してしまいました。もちろんそれ以前にも色々な形態 をとって、この試みはなされていました。はじめは外国人演出家による演出と、それに付随するワークショップの開催という形をとっていました。しかしそれ は、上演のためのエチュードであったり、メソッド(方法論)の紹介であったりで、一時的感染症のように熱に浮かされることはあっても、(かく言う私もその 一人でしたが)しばらくすると元の木阿弥で、確実に私たちの認識を変えるというところにまでは至っていませんでした。そこで恒常的に俳優教育を研修すると いう意味で、十年前に英国王立演劇学校(RADA)との交流が始まりました。

RADAの俳優教育はスタニスラフスキー・システムを基本としています。お恥ずかしい話ですが、当時の私はスタニスラフスキー・システムを演劇理論とし て漠然とした形でしか認識しておらず、実際のメソッドについては無知といって良い状態でした。「俳優修行」の真似をして児戯にも等しい行為を繰り返してみ たり、場違いなエチュードやシアター・ゲームを伝家の宝刀のように振りかざしてみたりで、今から考えれば冷や汗ものの時間を過ごしていたのです。それが RADAの論理的俳優教育との出会いで、おぼろげなりにもスタニスラフスキーの姿を垣間見られたような気がしてきたものでした。RADAの参加者から「こ のワークショップは演出家にとっても有効なものだ」と、よく云われたのですが、実際、テキストの分析や、役作り、シーン作りの考え方や方法には学ぶべきも のが数多くありました。もちろん、スタニスラフスキーが俳優であると同時に演出家でもある訳ですから、演劇というものに、どうアプローチしていたかを考え れば、このことは当然のことでもあった訳です。気を強くした私は、俳優たちと一緒にせっせと「演劇修行」のワークショップに精を出したものでした。それと 同時に、俳優教育のあり方、ひいては演劇というものを仲間たちと考えはじめたのです。私としては、かつてスタニスラフスキー・システムに対して、学問とし て書籍の上からアプローチして失敗した経験から、現場からのアプローチを目指すことを考えました。

日露演劇会議に参画したのも、こういった理由からで、スタニスラフスキーを生み、演技のシステムを育んだロシア演劇に触れることにより、その実態に迫ろ うとしたわけです。イギリスやアメリカの俳優教育の検証と同じように、ロシアの演劇大学での俳優教育をリサーチのためにロシアを訪れました。国立モスクワ 演劇大学やマールイ・ドラマ劇場付属演劇学校でのリサーチではRADAとの整合性が随所に見られ、英米露の演劇が太い幹の上に成り立っているのだという事 を確認することが出来ました。しかしそれは見学者としての認識であって、ロシアの演劇教育の実態に触れたというには程遠いものでした。そこで日露演劇会議 では、この太い幹に対するアプローチとして、スタニスラフスキーの著作の翻訳という理論上のアプローチと並行して、俳優教育(ワークショップ)への参加と いう実技上のアプローチが企画される事となったのです。今回のサンクト・ペテルブルグ演劇大学でのワークショップは、こういった意味で、私にとってもロシ アの演劇教育とのはじめての出会いとなった訳です。
サンクト・ペテルブルグという街は、ロシアというよりはヨーロッパの古都を思わせる美しい街です。昨年、建都300年を迎えたこの街は、ピョートル大帝 によって開かれました。このピョートル大帝という人は、ロシアの近代化に貢献しただけでなく、文化・芸術にも大きな影響を与えた人でした。ロシアの後進性 を憂えたピョートル大帝は、様々な改革を断行しました。

サンクト・ペテルブルグという街は、ロシアというよりはヨーロッパの古都を思わせる美しい街です。昨年、建都300年を迎えたこの街は、ピョートル大帝 によって開かれました。このピョートル大帝という人は、ロシアの近代化に貢献しただけでなく、文化・芸術にも大きな影響を与えた人でした。ロシアの後進性 を憂えたピョートル大帝は、様々な改革を断行しました。
その一つが芸術大学の設立などによる、西欧文化・芸術の導入でした。その後、民族性と革新との対立といううねりの中でも、ロシアが西欧の文化と肩を並べ られる芸術家を輩出できたのも、こういった教育制度の充実だったのだろうと思われます。私達が学んだロシア国立サンクト・ペテルブルグ演劇大学も、今年で 創立225年を迎えました。225年前というと、ピョートル大帝と同じように啓蒙家で知られる、女帝エカテリーナ二世の時代ということになります。この 18世紀後半というのは、ヨーロッパでは近代演劇が胎動し始め、ドイツではレッシングによって演劇論が展開されたり、市民を主人公にした戯曲が書かれたり した時期に当たります。エカテリーナ二世はドイツ出身ではありますが、ピョートル大帝と同様、ロシアの啓蒙に尽力した女帝で、こういった演劇の新しい流れ に、いち早く反応していたのかもしれません。こういった意味でロシアと日本状況には似た所があるように思えます。それは、中世から近代への急激な変換で す。

ただ、演劇において違うのは国立演劇大学が日本においては作られなかった事でしょう。こういった為政者の姿勢も日本における演劇の発展には問題になると ころです。もちろん私達がワークショップで学んだものは、エカテリーナの時代のものではありません。が、225年という歴史はロシアの演劇が「教育」とい うシステムの上に成り立っているということを如実に示す事実ではないでしょうか。現在、この大学で演劇教育の基本になっているのはスタニスラフスキーによ るものです。スタニスラフスキー達の演劇改革については、チェーホフの初演の苦渋とモスクワ芸術座がもたらした栄光で説明がつくと思いますが、その後の世 界の演劇界に大きな影響を及ぼしたというのも、現在の英米の演劇教育を見れば一目瞭然のことだと思います。サンクト・ペテルブルグ演劇大学もスタニスラフ スキーの弟子といわれる人たちが学長を勤め、現在の教育システムに繋がっています。
ロシアにおける演劇教育は、いわゆる徒弟制度のようなシステムの上に成り立っています。つまり、主任教授が(現役の演出家であったり有名な俳優であった りするのですが)、初年度30人位の新入生をオーディションで採り(倍率は何と百倍との事)、それを4・5人の専門教授陣と共に、4年ないし5年かけて俳 優として教育していくというものです。つまりプロとしての技術を徹底的に叩き込まれ、卒業証書を得て初めて全国の劇場に散っていくのです。この中には演出 家も含まれ、後年、教育者として後進を指導する事になる俳優や演出家は、誰でもこの基本的な技術をマスターしているという訳です。

余談ではありますが、私達の演技を指導してくださったアナトーリ先生は、現在80歳で昨年舞台を降りたそうですが、まさにスタニスラフスキーの没した頃に 演劇を学び始めた俳優といえるでしょう。この人のアニマル・エクササイズは単に観察や物真似というだけでなく、キャラクターを構築するうえでとても参考に なるものでした。
こういったシステムは日本の大学での俳優教育の中にはありません。プロの俳優を育てる技術と、それに伴う責任というものが日本の俳優教育では明確ではない ような気がします。こういったことの出来る人材の育成こそが、今後の日本における演劇教育の重要な課題のような気がしました。
このワークショップを通じて感じた問題点はまだまだ沢山あります。その一つは通訳の問題です。演劇のワークショップはスタニスラフスキーの専門用語も含 めて、哲学や科学的用語も登場します。その意味で、今回の私たちは「クニ」さんこと野崎さんの協力が得られたことは大きな助けになりました。最後にこの紙 面を借りてお礼を申し上げたいと思います。