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活動報告

オーラルヒストリー 河崎保氏に聞く①

2014/10/06
 

激動の20世紀と言われる。それはいったいどんな時代だったのか。わが日本に即して歴史を振り返ってみても、19世紀末の日清戦争から始まって、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦と、ほぼ半世紀は戦争に継ぐ戦争の時代だった。そして1945年、昭和20年の完膚なきまでの敗戦。米軍(GHQ)による占領。やがて世界がイデオロギーによる厳しい対立の時代、東西冷戦に突入すると、民主主義という自由の輝きは次第に翳り、日本は否応なく西側に組み込まれ、労働争議や思想の弾圧、レッドパージ、安保をめぐる闘争など、国民の中に多くの亀裂がもたらされた。元号に従うと、それは昭和という時代が刻んだ波乱の歴史だった。
間もなく戦後も70年。激しく揺れ動いたその昭和という時代に、我々の身近な世界の先輩たちはどう生きどんな道を選びとって来たのだろうか。生身の証言者も、もう年を重ねた。そろそろ記憶を紐解き記録に刻む時ではないだろうか。
日露演劇会議では、折に触れ映画演劇関係のそんな時代の証言者に話を聞き、ホームページに掲載する。最初の語り手は、河崎保氏。河崎氏は1923年10月11日生まれ。今年90歳。終戦の年、演技者として東宝映画に入社。戦後の大争議、「東宝争議」を闘ったあと、密航船で中国に渡航。日本共産党の亡命組織の元で海外放送のアナウンサーを務め、のちソ連に渡って日本語放送の担い手となった。河崎保氏のそんな波乱に満ちた体験を10回に分けて掲載する。聞き手は会員の横田元一郎と宇野淑子。文責は宇野。

Q 映画の世界に飛び込み、1948年の東宝争議に関わり、1952年に漁船で中国に密航、やがてモスクワ放送から呼ばれて日本語アナウンサーとして活動、1969年に日本に帰国するまで、激動の20世紀をまさに劇的に駆け抜けた、その波乱万丈の半生の記憶を語っていただきたい。
お生まれは茨城県、中学時代に肋膜炎を患ったことから、運命の歯車が大きく動き出したんですね?
 

A)そう。中学3年生のとき学校で奥日光へ旅行したの。雨に降られてびしょびしょ。それで肋膜に罹った。3ヶ月ほど学校を休んだんだけど、たまたま学友のひとりに映画が大好きな人がいた。それまで映画は余り見たことがなかった。見たのはせいぜい「ターザン」くらい。見ると頭が痛くなっちゃう性質だったからね。ところがそいつが見舞いに来てくれて、名前も忘れちゃったけど、ああいう映画があった、こういう映画があった、面白かった、と映画の話をいっぱいしてくれた。こっちは肋膜で寝ているから、空想がどんどん膨れていった。病床にありながら映画というものに憧れるようになっちゃって、良くなるや否や見に行ったの。1938年から39年頃。
最初に衝撃を受けた映画は、吉村公三郎の「暖流」。今から考えれば普通のメロドラマだったに違いないけど、何しろ「ターザン」しか見ていなかった男が、そういう映画の世界に触れて驚いた。映画というものにぱっーと目を開かされた。
その頃やっていた映画をリストアップしたけど、外国映画は「モダンタイムス」「舞踏会の手帳」。日本映画では「五人の斥候兵」「路傍の石」「綴り方教室」「愛染かつら」。歌で流行ったのは「支那の夜」「麦と兵隊」。39年頃は戦争色が強くなって、「土」「土と兵隊」「残菊物語」。「暖流」は1939年ですね。佐分利信、高峰三枝子主演。