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活動報告

オーラルヒストリー 河崎保氏に聞く①

2014/10/05
宇野 淑子(ナレーター/常務理事)

河崎保氏

河崎保氏

激動の20世紀と言われる。それはいったいどんな時代だったのか。わが日本に即して歴史を振り返ってみても、19世紀末の日清戦争から始まって、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦と、ほぼ半世紀は戦争に継ぐ戦争の時代だった。そして1945年、昭和20年の完膚なきまでの敗戦。米軍(GHQ)による占領。やがて世界がイデオロギーによる厳しい対立の時代、東西冷戦に突入すると、民主主義という自由の輝きは次第に翳り、日本は否応なく西側に組み込まれ、労働争議や思想の弾圧、レッドパージ、安保をめぐる闘争など、国民の中に多くの亀裂がもたらされた。元号に従うと、それは昭和という時代が刻んだ波乱の歴史だった。
間もなく戦後も70年。激しく揺れ動いたその昭和という時代に、我々の身近な世界の先輩たちはどう生きどんな道を選びとって来たのだろうか。生身の証言者も、もう年を重ねた。そろそろ記憶を紐解き記録に刻む時ではないだろうか。
日露演劇会議では、折に触れ映画演劇関係のそんな時代の証言者に話を聞き、ホームページに掲載する。最初の語り手は、河崎保氏。河崎氏は1923年10月1日生まれ。今年90歳。終戦の年、演技者として東宝映画に入社。戦後の大争議、「東宝争議」を闘ったあと、密航船で中国に渡航。日本共産党の亡命組織の元で海外放送のアナウンサーを務め、のちソ連に渡って日本語放送の担い手となった。河崎保氏のそんな波乱に満ちた体験を10回に分けて掲載する。聞き手は会員の横田元一郎と宇野淑子。文責は宇野。

Q 映画の世界に飛び込み、1948年の東宝争議に関わり、1952年に漁船で中国に密航、やがてモスクワ放送から呼ばれて日本語アナウンサーとして活動、1969年に日本に帰国するまで、激動の20世紀をまさに劇的に駆け抜けた、その波乱万丈の半生の記憶を語っていただきたい。
お生まれは茨城県、中学時代に肋膜炎を患ったことから、運命の歯車が大きく動き出したんですね?

 そう。中学3年生のとき学校で奥日光へ旅行したの。雨に降られてびしょびしょ。それで肋膜に罹った。3ヶ月ほど学校を休んだんだけど、たまたま学友のひとりに映画が大好きな人がいた。それまで映画は余り見たことがなかった。見たのはせいぜい「ターザン」くらい。見ると頭が痛くなっちゃう性質だったからね。ところがそいつが見舞いに来てくれて、名前も忘れちゃったけど、ああいう映画があった、こういう映画があった、面白かった、と映画の話をいっぱいしてくれた。こっちは肋膜で寝ているから、空想がどんどん膨れていった。病床にありながら映画というものに憧れるようになっちゃって、良くなるや否や見に行ったの。1938年から39年頃。
最初に衝撃を受けた映画は、吉村公三郎の「暖流」。今から考えれば普通のメロドラマだったに違いないけど、何しろ「ターザン」しか見ていなかった男が、そういう映画の世界に触れて驚いた。映画というものにぱっーと目を開かされた。
その頃やっていた映画をリストアップしたけど、外国映画は「モダンタイムス」「舞踏会の手帳」。日本映画では「五人の斥候兵」「路傍の石」「綴り方教室」「愛染かつら」。歌で流行ったのは「支那の夜」「麦と兵隊」。39年頃は戦争色が強くなって、「土」「土と兵隊」「残菊物語」。「暖流」は1939年ですね。佐分利信、高峰三枝子主演。

Q その頃はもうトーキーですね?

 そうそう、もちろん。洋画でも「望郷」とか「格子なき牢獄」とかね。「「父よあなたは強かった」って歌が流行った頃。40年に行くとだんだんスローガンが「贅沢は敵だ」なんて看板があちこちかかる時代。日独伊三国同盟が調印されてね。起源2600年の年ですよ。流行った歌は「誰か故郷を思わざる」とかね。映画は「風の又三郎」「小島の春」とか。
そういう映画を片っ端から見て、それですっかり映画マニアになっちゃった。勉強中、一生懸命映画のニュースを作っちゃあみんなに回してね。入学したときは僕はクラス一番の成績だったの。映画に病み付きになって以来成績は下がる一方、下から勘定した方が早くなった。
通っていた巣鴨商業学校は大塚と池袋の間にあった。池袋に喫茶店ができて、学校の帰りにかばんを全部そこに預けて、友達と一緒に映画館を見歩いて、また喫茶店に戻ってそこから家に帰る。つまり、僕の人生の節目のきっかけは肋膜で入院したこと。
その頃学校では軍事訓練というのが行われていた。将校が来て、生徒たちに軍事訓練をやらせたわけね。そういう時代だった。病気の効用のもう一つは、こちらが病み上がりだったこと。いい塩梅に訓練を年中見学していられた。合法的にサボることができた。そういう術を身に着けた。これは人生の貴重な経験。これが後に役に立つ。
さて卒業を控えて、就職を考える頃になって、映画気狂いになっていたから東和商事映画部に入りたいと言った。その頃は学校が職業を紹介してくれたからね。東和商事は後の東和映画。その頃の東和商事映画部は評論家の筈見恒夫さんなんかがいて、ドイツやフランスの名画の配給で有名だった。例えば「美の祭典」とか「民族の祭典」とかね。

Q レニ・リーフェンシュタール。ナチの宣伝映画ですね?

 まだ他にもいっぱいあるんですよ、名作が。「制服の処女」「会議は踊る」「商船テナシティー」「未完成交響楽」「自由をわれらに」などなどね。そういう情報を知っていたから、あそこへ入りたいと。商業学校だから配属されたところは何といっても会計部だったけど、映画の話はいろいろ出てくるし、試写室から音が聞こえてくるのを仕事しながら聞いていた。
そのうち、映画界新体制ということで、半官半民の映画配給会社になって、僕はポスターとかスティールを扱う宣伝部にまわされた。会計よりそっちの方が面白い。
そこで1年ぐらいやっている間に、日本で初めて映画学校ができた。日本映画学校。そこでは生徒に対する徴用制が免除されていた。よくわからないんだけど、特別に扱われていた学校で、校長は菊池寛なんですよ。月謝はたったの5円。その映画学校ができたというのはニュースで知ったんだけど、いろいろ計算して考えた。月謝5円、すると年にするといくらいくら。今の会社を辞めると退職金がいくら。1年制の学校だから12で割ると月々どのくらいになる。これなら退職金で学資を払って勉強できるな、ということがわかった。親にはお勤めに行っている顔をして、その翌年、映画学校の試験を受けて無事に入学したんですよ。そこの演技科の講師に山本安英さんがいた。

Q でもどうしてそこで突然演技の方の勉強をしようという気になったんですか?

 だって映画見ただけでいきなり照明とか音楽っていうわけに行かないしね、一番手っ取り早いと思った。それに日本映画学校というのはそもそもがカメラマンの養成と俳優の養成、2つしかなかった。とてもとてもカメラマンは無理だしね。それほど映像技術に興味があったわけでもなし、むしろ人間を描くドラマの方に興味があったからね。

Q 要するに、映画を外側から宣伝したり売り込んだりという仕事から、映画を作る側に入ろうと決めたわけですね?

 映画見ながらね、自分が入りこんじゃう、その世界に。自分で自分を発見したんです。これが一番自分に向いている生き方だなと。そう感じたんじゃないかな当時。
それで無事に入学して、1学期、2学期が済んで、3学期近くになってからだな、召集令状が来ちゃった。それまでに一度兵役検査があって、肋膜だから合格しないで、来年もう一度来いということになっていて、二度目の検査でやっと丙種合格になっていた。丙種なんてもともとは兵隊にとる条件じゃなかった。ところが戦争がだんだん悪くなってきたから、丙種さえも徴兵するようになった。それで四ツ谷の通信隊に入れられた。ご近所の人たちが鎮守のお社で、万歳万歳とかがんばれと言って送ってくれた。
それで入隊して、ここが私の二度目の節目ね。軍医が回ってきて、「体の具合が悪いものは申し出ろ」「はい、はい、はい!」。中学時代のあの体験ね。そういう不心得が3人いたの。僕ら自分の荷物まとめさせられて別室に入れられた。そして軍医がやって来てね、お前らいま熱を測るからと体温計を渡された。当時の体温計って今のような電子式じゃないから、水銀のやつね。僕はもともと科学的なことも好きだった。中学では天文部に入っていてね。

Q わかった、どうすれば温度が上がるか知っていた。

 そう。体温計を腋の下に挟むでしょ、軍医は僕らの前を背中に手をやってね、コツコツコツ、向こうへ行くわけ。向こうへ行った隙に、パンパンパン。向こうへ行った隙にまたパンパンパンパン。ときどき見てね、37度何分だかまで上げた。お前まだ駄目だ、すぐ帰れって、即日帰郷。

Q その頃普通の青年は、国家のためにお役に立ちたいとか、天皇陛下のために死にますとか、そういう方が多かったと思うけど、その辺河崎さんは国家からまったく自由だった? 後ろめたさはなかった?

 まったくない。好きなことをやりたい、やるためにはあらゆる手段をね、合法非合法含めて僕はやる。実はね、非合法活動を他にもそれまでに経験しているの。
家のお袋は親父と離婚して一人暮らししていたらしいのね。理由はわかんないけど、どうも男関係かも知れない。僕は一人っ子だった。兄貴は4歳で死んでるから一人っ子だったんだけど、僕の親父っていうのはね、後妻をもらって、弟が一人できた。初め大森に住んでいたのが次に中野に住んで、桃園小学校に入ったんだけど、その頃、何年も音信不通だった母親が突然現れて、「保―!」「私は一人で蒲田に住んでんだ。これこれのところだから、時々会ってごはんでも食べましょうよ」って連絡をくれるようになった。それ以来本当の母親とはね、時折出かけて行ってはご馳走になったりお小遣いをもらったりしてた。もちろん家族には内緒。これも第二の非合法活動でしょ? そうやって非合法活動は体験済みでした。アハハハハ…。
それで徴兵から帰って来たでしょ。そしたら、バンザイバンザイと送られた僕が即日帰郷で帰されたもんだから、親たちはどうだったか。今の人だったら、おそらく赤飯炊いて大喜びしてくれるに違いないけど、その頃はもう大塚に住んでいましたからね、ご近所の手前恥ずかしいって顔をしてるわけ。ジーとして。そしてもちろん赤飯どころじゃないね。徴兵検査どうだったかなんて話は何もしない。黙ってひたすら黙々と対峙していた。
検査終わって、また学校へ戻れるわけだから、僕は学校へ戻った。そしたら、山本安英さんが「河崎さん、ちょっとちょっと」とわざわざ校門の外まで呼び出してくれて、小さい声で「河崎さん、よかったですね」。あの当時、戦争の真っ最中ですよ、徴兵検査逃れられてよかったですねなんて言えた人は、それこそ他にいないでしょう。

Q 非国民って言われますものね。

 あとになって特に感じたんだけどね、山本さんて素晴らしい人だった。のちに私宛に写真までプレゼントしてくれた。その山本安英さんの演出で、卒業公演は菊池寛作「父帰る」の主役の長男の役をもらったわけ。それで無事、いい成績で卒業することができた。戦争の真っ最中よ、それは。だから頭の上をB29がぶんぶん飛んで来たりしたことがあるのね。ちょうど学校は代々木八幡のところにあった。線路のすぐ傍で。僕らやんちゃだったからね、授業中断して学校の屋根の上に上がってね、飛行機を見てたことがあるの。そしたらね、B29がちょうど代々木の森の上ね、集会やる森があるじゃない、公園ていうのかな、その上に飛んで来たときに、日本の高射砲が当たって、それが火を噴いて新宿方面に落っこちるのを見た。「わーすげえすげえ」なんてやったことがあるんですよ。そういう時代に、逃れられてよかったと言えた山本さんの素晴らしさ。立派な方だったなあという思いがのちのち強くなりました。
それで学校を卒業すると、好きなところへ入れてもらえた。松竹へ行った人もいるし東宝へ行った人もいる。僕は東宝へ入りました。入社したのは終戦の年です。

Q 松竹でなく東宝を選んだ理由は?

 理由は大してない。松竹は大船だからね、遠かったでしょう。東宝は砧にあって、小田急の成城大学駅だったから便利だった。家もその頃は護国寺にあったからね。路面電車で池袋まで出て、池袋から山手線で新宿、新宿からは小田急線で行けたしね。
話は映画学校へ戻るけど、講師の中に田中栄三さんという人がいました。演技科の講師で、岡田嘉子の最初の映画を撮った(大正11年「髑髏の舞」)監督だった。この方は日本の映画界がサイレントからトーキーに変わった時代に、あちこちの養成所、日活だの大映の養成所の講師をやってきて、そして日本映画学校の講師になったわけだけど、俳優の音声訓練をやらなければいけないっていうんで、早稲田の演劇博物館に行っていろいろ資料を調べたんですね。そこで歌舞伎18番の中の「外郎売」というのを見つけた。2代目団十郎が享保3年にドラマにした作品なんだけど、あまりの難ゼリフにそのあと何十年も上演されなかった。80年近く経ってから再演されたのを僕は観てるんですけど、これを演じられる俳優はなかなか出て来なかった。その「外郎売」を世に広めたのが実は田中栄三先生。「トーキー俳優読本」という本で初めて発表して、それが弟子、孫弟子というように引き継がれて行って、現在あちこちで使われるようになった「外郎売」なんですね。僕は直接田中先生から読み方を教わったり、また意味を自分でも調べた。だってね、もの凄く言葉遊びが多いのね。だからずらずらずらずら言ってるだけじゃ面白くないの。その言葉遊びの裏にある、裏づけになるものをいろいろ調べて行くと、これがまた非常に面白いものでね。

Q 「外郎売」は今でも、アナウンサーの世界では声の訓練に使ってますね。

 僕はそれを田中先生と山本安英さんという一流の俳優に訓練してもらった。
それで卒業後東宝へ入って、その年夏に戦争が終って、そして終戦になるやいなや一斉に始まったのが組合運動。戦後はとにかくばたばた一斉に左翼勢力が伸びてきてね。東宝でも従業員組合ができた。この年の12月でした。争議が何回か起きて、東宝は映画界の中では最も先鋭的な労働組合になるんです。一方でまた分裂騒ぎもあって、例えば大河内伝次郎などスターたちが組合を脱退する。会社側の唆しもあるんですが。当時の美術監督の宮森繁君が後で書いている。「この大河内伝次郎たちが、10人の旗の会というスター10人の集まりをもとに組合を脱退し、後に新東宝という株式会社を作る云々」(『東宝争議追想~来なかったのは軍艦だけ』)と。これは資本家の裏での勧めがあって、資本家の庇護を受けて、別会社を作るという約束のもとに、組合を分裂させた。10人の旗の会は大河内伝次郎、山田五十鈴、原節子、高峰秀子、長谷川一夫などです。スターの抜けた穴を埋めるために、東宝としてはニューフェースを募集した。そのとき入ったのが、三船敏郎、岸旗江、久我美子など。久我美子とは一緒に闘った。

東宝争議の写真(「宮森繁著『東宝争議追想~来なかったのは軍艦だけ』光陽出版社から借用)

東宝争議の写真(「宮森繁著『東宝争議追想~来なかったのは軍艦だけ』光陽出版社 から借用)

Q その頃は争議が中心になっていて、いい映画が作れなかった、っていうわけではなかったんですね?

 そこが大事なところですけどね、撮影所の僕らが作った労働組合はね、争議だけ、待遇改善だけやってたんじゃなく、会社との間に経営協議会という協議機関を認めさせ、企画審議会というやっぱり協議機関を設けて、映画の製作はこれらの機関の合意を得てなされるという基準のもとに、製作条件が作られていたわけ。その中でいい映画がいくつも出来てるんですよ。その頃労働組合との協議の中で生まれた映画は、確か1947年度なんかはキネマ旬報ベスト10の、10本のうち6本を取ってるんですよ。衣笠貞之助、五所平之助、山本薩夫、亀井文夫、今井正、黒澤明なんかが民主主義的な空気の中でいい映画を撮っていましたからね。46年から48年にかけて、「わが青春に悔いなし」「或る夜の殿様」「戦争と平和」「素晴らしき日曜日」「今ひとたびの」「女優」「銀嶺の果て」「四つの恋の物語」「酔いどれ天使」、関川秀雄「第二の人生」などですね。
会社は、このまま組合に牛耳られちゃったら大変だっていうんで、渡辺銕蔵という、反共運動に熱心だった、映画とはまったく無関係の重役を社長に据えるわけですよ。で、これが何と、“赤字とアカ”の追放を理由に1,200人の首切りを発表した。第三次東宝争議です。これが凄い大争議になっていって、支援団体の人たちがあちらこちらからいっぱい集まってくれてね、わいわいわいわい応援してくれたわけです。手を繋いで広場の真ん中の噴水を取り囲んだりして応援をしてくれたわけ。その中に、私的なことになりますが、うちのカミサンが、合唱の指導に来ていた。なかなかしっかりしてるからちょっと教育してやろうかとか言って、あちこち宣伝に行くとき一緒に連れていってね、ハハハハ…。

東宝争議の写真(「宮森繁著『東宝争議追想~来なかったのは軍艦だけ』光陽出版社から借用)

東宝争議の写真(「宮森繁著『東宝争議追想~来なかったのは軍艦だけ』光陽出版社 から借用)

Q 恋も芽生えた。

 そう。それでいよいよ1948年の8月19日、問題の日になるわけね。

Q 組合側がバリケードを築いて立てこもった砧撮影所が、会社側の訴えた地裁の仮処分申請で接収される日。米軍が出動、来なかったのは軍艦だけだったという日ですね?

 それがこの写真(添付写真参照)です。アメリカ軍が戦車を先頭に一個中隊、その後ろに日本の警官、何と言ったかなあ…。

Q 警察予備隊?

 そう予備隊が2000人。頭上を飛んでた米軍ヘリコプターが3機。司令官がそれに乗ってて、下にいる部下たちに指示を出した。僕らは撮影所が弾圧されるかも知れないと前もってわかっていたから、そこは映画人だからね、芝居っ気があってさ、ご近所の皆さんに、「内緒だけどさ、バリケードでぐるりと張ってあるあの鉄条網にはね、高圧電流が通っているからね、触らないでね」って宣伝して歩いたわけ。それからね、これは正門なんだけどね、正門のところにも鉄条網を張り巡らせて、「高圧電流があるから心配だ」って宣伝して歩いた。「気をつけて気をつけて」って宣伝して歩いた。全部、敵に通じるように宣伝したわけ。もう一つはね、正門の右の建物が宣伝部の建物でね、その上に大きな樽を置いてね、それにインクを混ぜた水をいっぱい溜めて、わしらを弾圧しに来たやつらに、このインクの入った水をみんなぶっかけてやる、皆さん、町を歩いているときインクの色の付いた制服を着ているやつがいたら、それは東宝を弾圧しに来た警察であると思って下さいよ、とあちこちで宣伝したわけ。そうしたら彼らはちゃんと防御用の準備をして来たわけよ、板などで。

Q 鉄条網に触れないで乗り越えられるような?

 そうなの。トラックの上には着替えの洋服まで用意して。宣伝したことは全部嘘なのよ。芝居っ気があるからね、映画人っていうのは。もちろん僕らは押したり引いたりの折衝をやったわけ。下手したらこっちも反撃するぞ、何があるかわからない、それこそ秘密兵器があるかも知れない、とあちこち宣伝していたから、彼らもいっぱい準備して来たわけでしょ。

Q だから警察予備隊も米軍も強引に来ないで、警戒しながらやって来た?

 2000人の部隊がいて、今にも戦車がバリケードをぶっ壊そうとする。エンジンかけたりしながら我々を脅かそうとする。すると戦車の前に立ちはだかった監督がいるの。亀井文夫さん。「暴力では文化は破壊されない」って書いた大きな紙を広げて、そうやって戦車の前に立ったわけね。

Q 天安門事件を思い出しますね、戦車の前に立ちはだかった青年を。それでどうなりました?

 それで僕ら押して押して、敵の腹を探りながら交渉した上で、一つの作戦をね、当時の指導部が、巧妙な作戦だと思うんだけど、決めたんです。結局は、ここで血の弾圧を受けたら、それこそ組合はめちゃめちゃになってしまう。向こうは向こうで心配してるわけだ、何が出て来るかわかんない、それこそね、東宝原爆が出て来るかも知れないとね(笑い)。お互いにそうやって相手の腹を読みながらの交渉の末に、組合幹部20人の馘首を認めた。その代わり、争議解決後、再び我々は組合事務所に戻ることができる、そういう決着の仕方を選んだ。幹部は馘首を認めたんですよ。そしてそのための慰藉料はいくらいくらと、交渉しながら全部決めて、あわや激突という寸前のところで妥協したわけね。押したり引いたりしながら。それで僕たちは整然と撤退して、仮処分の執行吏は安心して鉄条網を乗り越え門から撮影所に入って来たんです。

Q 亀井文夫さんはどうなったんですか?

 亀井文夫さんも馘首のうちの一人。首切られた。
その頃、日本の労働運動の現場では、敵の背後にアメリカがあるということは、誰にも知らされていない時代だったんですよ、48年頃にはまだ。本当の敵はこれだ、という政治的な判断、それを見抜いたところが東宝の撮影所の組合幹部たちの素晴らしいところだったと思うんですね。それで僕らは戦車の写真、アメリカ兵の写真、機動隊の写真、全部証拠の写真を撮って、商売人だからね、全部その写真を焼き増しして、宣伝隊が懐に持って、当時、文工隊と言いましたけどね、文化工作隊と言ってね、3人か4人くらいの小さな宣伝班を作って、歌える女優さんが歌を歌ったり、詩の朗読をやったり、その中で演説をやる人がいたり、そういう小さなグループを作っては、いろんな労働組合、支援団体に行って演説して、争議の実情を訴えて、カンパをもらってきたわけ。時にはね、アメ横まで買出しに行って、品物を買って来てそれを売ってカンパにするとかね。そういうやり方をしてたんですね。で、そのときの争議の解決資金を基にして組合は一本の映画を作るんですよ。

Q すごいですねえ。それで出来上がったのが山本薩夫の「暴力の街」ですか? 東宝ではなくて、独立プロとして作ったわけですよね?

 そういうこと、そういうこと。僕はその頃は実生活で青年運動のリーダーだったから、この映画のなかでもね、学生運動のリーダーという役で、しかも最後には町民大会で大演説をぶつ、そこで映画は終結に向かうというかっこいい役だった。後で勉強会のとき三島雅夫さんに褒められた。あれは、あそこは良かったぜ、と言って。

Q 実戦で鍛えたわけですね。(つづく)

学生運動のリーダーを凛々しく演じた若き日の河崎保氏の写真

学生運動のリーダーを凛々しく演じた若き日の河崎保氏。

学生運動のリーダーを凛々しく演じた若き日の河崎保氏の写真

学生運動のリーダーを凛々しく演じた若き日の河崎保氏。