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主催事業

「空が増える」知恵の実...

2004/04/01
松本 永実子(演出家/理事)

ロシアで学ぶ演技のスタンダード!

[2004.03.20~03.28]

演劇大学正門前のワークショップ参加者

演劇大学正門前のワークショップ参加者

八時間遅れの出発で真夜中に降り立ったモスクワは、小雪の散らつくマイナス十度の漆黒の闇。サンクト・ペテルブルグへの直行便はすでに出発しており、仕方 なく予定外の一泊を強いられることに。日露演劇会議主催の「ワークショップ・ツアー」は、日本人のロシアに於ける初の演劇ワークショップです。何でも起こ り得るという覚悟はありましたが、この時点で「ええい、どうとでもなれぃ」の気分になり、翌朝古都サンクトへの入城(?)と相成りました。

翌日、市内観光が済むと、早速会場の演劇アカデミー校舎へ案内されたものの、日曜日で学生がいるはずもなく、その昔、大統領府だったという建物には霊気さえ感じられました。なにせビジュアル的には町全体が十九世紀で、現代が「無い」サンクトです、教室に颯爽と登場したセルゲイ副校長とラリサ先生は、白馬を駆り城に到着した騎士と貴婦人に見えました。その瞬間から、(誠実な通訳チームの手助けによる)このアカデミーの莫大なスケールの教育がスタートしたのです。

もともと二五〇年以上前、帝国アカデミーとして出発したこの機関は、革命後、二年間メイエルホリドが校長を務めていたこともあるそうで、運営はスタニスラフスキーの生徒たちによって為されていたこともある、というつわもの。現在、四学部(ドラマ・演劇研究・人形劇・装置や照明・衣装などを含めたセネオグラフィー)に九百人の生徒を擁し、国際部もあって、留学生の受け入れも盛んとか。しかしセルゲイ先生が繰り返したのは、「二週間半の短期外国人ワークショップ」という言葉でした。そのことの意味を、私たちは初日から思い知らされることになります。期間中に教えられることはすべて教えたい、あなたたちを変えたい、というその意欲たるや、熊の如く強引・旺盛で、教師たちのまなざしも態度も真剣そのもの。時間が惜しいという気持ちがひしひしと伝わってきます。

セルゲイ先生は袋にいっぱい、りんごを持ってこられました。「追体験」ということを身体的に教えるためです。まずは身体の経験という知恵の実を授ける目論見でしょう。スタニスラフスキー後期の理論の実践だと直感しました。彼は「身体感覚・意味・イメージ(想像力)」が演技の三本柱だと言いました。俳優は、もって生まれたそれらの資質の振れ幅を極限まで広げる責任があるのだ、と言いながら、まず無対象でりんごを食べさせ、それから実際に実を持って食べ、その時の感覚体験を観察させ、それを再現させました。こういう単純な作業の中にも、最大限に開いた頭、感覚のメカニズムが必要で、こうした「心を使う訓練が行き届いていないと、俳優はリスクを背負うことになる」と脅されました。…

扱った戯曲はブルガコフの「モリエール」で、発つ前から日本側が要求していた素材でしたが、教師連七人は事前に打ち合わせしてあり、各担当がこの戯曲に則した指導を行えるようになっていました。演技の授業(稽古も)は「トレーニング→エチュード→本」という順番で行われ、時間をかけて役を創造していきます。まず、その戯曲に必要な身体感覚を養う訓練をし、本をあら読みして内容を頭に入れたエチュードを行い、その後、エチュードを本に則したものに移していくのです。その際、決して頭から入らず、その時の前状況を絵として想像し、そこから感じられる身体感覚を抱えもって、アクション(目的/課題)とカウンターアクション(障害)を設定して入っていくことを要求されます。エチュード中、関係性や状況が、浅い頭の作業だけになってしまったり、芝居がかったり、自分の感覚と無関係なところから出発したりすると、すぐに止められて「人生のないエチュードだった」と手ひどいダメが飛びます。

一回のエチュードが終わると、そこでみつけた「小さな真実」を確認し、本来の戯曲内の役とどこが違ったかを検証して、違う側面からまたエチュードを繰り返します。そうしながらだんだんに戯曲に近づけていくのです。 週末には八十歳に手が届こうというアナトーリ先生なる俳優教師が現れました。彼は、キャラクターを担当する、と言って数々の例を見せてくれましたが、その達者なことと言ったら。「キャラクターとは、その存在が世の中をどう見ているか、ということです」「愛とは相手を観測すること」「キャラクターとは育てていくもので即できるものではない」「常に何か新しいいものを探す努力をなさい」など名言を吐かれました。

興奮を書き連ねている内、もうすでに指定枚数を超えそうです。要約してしまうとつまらないので、実況報告だと思って勘弁してください。その他に、ムーブメント(写真)や発声の授業、七つの観劇もプログラムに入っていましたが、それらも全て、最大限に自己を拡げるトレーニングの一環でした。
「空が増える、海の底には怪物がいる、山の頂には天使がいる」というプーシキンの詩を豊かに感じなければならない、とスタニスラフスキーが言ったそうです。信じて創る人が創造者であり、演じる人はただの上手な演奏者にすぎない、とも。

開き直って入城し、知恵の実りんごを渡されてから二週間半、役者に戻って自分の頭も心も身体も最大限に広げられ、自分の感覚を信じて創造の輪に加わり、実りを得て帰国しました。身体はびっくりしてしまったようです。しかし、これまでアメリカ・イギリスの俳優訓練を経験してきた上でロシアと邂逅したことは、(歴史的に逆のコースをとったことになりますが)私にとっては最高の順番でした。それぞれの国に、それぞれの時代や世代や社会環境にふさわしいスタニスラフスキーの方法の捉え方・伝え方があること、さらには、真実は総本山スタニスラフスキー自身も死ぬまで希求していたことを痛感しました。彼は、モスクワのレオンチエフスキー通りの三階建ての自宅で、一階と三階部分を当局から一般住宅に提供させられ、しかも、寝室の隣の食堂には医者と偽ったKGBが同居していたと、帰途立ち寄ったその家で案内の人から聞きました。ロシア正教の信者だと公言していたのが理由だと、その人は語りました。その中で、最期まで俳優教育の研究をやめなかったのです。スタニスラフスキーが最期まで探求していたものを、どうして私たちが探求せずに既知の知識の上にあぐらをかいていられるでしょうか。日々の稽古や授業の中で、一体、真実はどこにあるのかと自己に問いかけながら演劇に関わっていくことが、このワークショプに参加した者の責任であるように思いました。

ここまでは雑誌「テアトロ」と同じ内容です。枚数に余裕があるので、少し付け加えます。サンクトとモスクワの二年の変化には、目を見張るものがありました。特にサンクトでは、地元民と一緒に乗り合いバスに揺られるなど、共に暮らす毎日でしたから、余計にその変貌ぶりに驚きました。安全になった、ということ。引ったくりに遭った人もいるにはいましたが、二年前はもっともっと不安な情勢が街にあふれていて、乗り合いバスは一度だけ乗りましたが、ヒヤヒヤものでした。第一、ネフスキー大通りでアイスクリームを頬張るなど、想像もできなかった...ホテルの元KBGらしき警備員の数も減ってその様子も緊張感がなくなりました。モスクワの街にはアメリカ資本の看板が溢れ、グム百貨店には、東京でも滅多にお目にかかれないような高級品が鎮座ましましておりました。英語も前よりは通じるようになり、英語ができると相手の扱いが突然変わり、こちらのステータスが上がるのには参りました。アメリカ資本の帝国主義に毒されるな、と言いたかった...
芝居の演出も、サンクトの二年前は「西側」のアヴァン・ギャルドを「真似してみようじゃないか」的な安易な崩し方が若者の間で芽生えているという感触を持ちましたが、今回は、プロが自信をもって新しい試みに挑戦している感じでした。私たちからすると、「そんなにせんでもあなたたちにはすばらしい演劇の伝統があるじゃないの」ということになりますが、これは、西欧の演劇人が日本の伝統芸能に対してかけてくる言葉と同じですから、外国人があれこれ口を挟むことではない、とすぐにわかります。

その中にあって、モスクワ芸術座の「クリスマスの夜」は圧巻でした。あらすじもろくにわからずに憧れの劇場に足を踏み入れた私たちでしたが、最前列で、ベテラン役者のスタニスラフスキー・システムそのままの一挙手一投足に釘付けになりました。一緒に行ったふたりの若者も、興奮冷めやらぬ様子で、ホテルへの帰途、迎えに来てくれた通訳の野崎さんに向かって、皆でまるでお母さんに報告するように感激を語りながらトゥヴェルスカヤ通りを紅潮して帰ったこと、一生忘れないでしょう。 モスクワの旅程はかなり強行軍でしたが、スタニスラフスキーの家は翻訳中の「スタニスラフスキーと俳優」の舞台となった場所ですし、芸術座バックステージでは前日の芝居が実は同姓同名のロシア人演出家ペーター・シュタインの作だったことが判明。(ピョートル・何某なんでしょう)おかしいと思ったんだ...装置の仕掛けを裏から見せてもらい、ホクホクでした。

最後になりましたが、サンクトの皆さんに恩返しのつもりで開催した「和式所作の説明」は思いのほか、受けました。誰に?参加者の日本人に、です。もちろんロシアの方々も熱心に見入っておられましたけれど、若者の中には「そんなの初めて聞いた」的な反応が多くて参りました。全く、日本人は日本の教育さえ怠っていたのだと反省。帰国してからは演劇学校で日本の話を多く取り入れるようにしています。この催しに関しては、直前に決定したこともあり、米倉さんや入江さんの協力がなければ実現しなかったと感謝しております。

いえ、今回の参加者の皆さんには、全員、心からの敬意を表したいと思います。野崎さんがサンクトでの打ち上げの時、奇しくも仰いましたが、「このメンバーには見えない力が働いて奇跡的に無事で実り多いワークショップができているという気がします。」全く同感です。自然な協力体制といい、治安といい、スムーズな意思疎通といい、殆ど揉めることがなかったのは、どこかで神様が私たちを守ってくださった、としか言いようがありません。野崎さんにも、何から何まで目を配っていただいて積極的に行動していただいたこと、同じ通訳仲間として敬意を表します。強い意志を以って企画していただいた村井さん初め、いろいろ助けていただいた日露の皆様、プロコの冨田さん、イーゴリさん、おふたりのイリーナさん、そして思い出深い七人の先生方にも、厚く御礼申し上げます。ありがとうございました!