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アナトーリー・スメリャンスキー講演録

2009/01/04
 日露演劇会議事務局

アナトーリー・スメリャンスキー 通訳:安達 紀子

2007年11月8日  明治大学

講演中のアナトーリー・スメリャンスキー

講演中のアナトーリー・スメリャンスキー

今日は3回目、最後の講演会です。

私は日本に来るのがこれで3回目です。第1回目は1987年、モスクワ芸術座の日本公演のときに一緒にまいりました。第2回目は鈴木忠志に招待されて静岡に来ました。今回、3回目は村井さんに招待されてやって来ました。 私は65歳です。ロシアでは男性の平均寿命は57歳です。ですから、私は今後、日本にはもう来ることがないかもしれないですね。私は平均寿命よりも8歳も長く生きているわけですから。そんなわけで今日は何か締めくくりとなるような大事なことをお話しなければなりません。といっても、何か大事なことをお話するのはとても危険なことです。何か大事でないことを話しながら、それがさも大事なことであるかのように響くほうがよいでしょう。

私はすでにスタニスラフスキーのこと、モスクワ芸術座のことを話しました。今日は演劇教育のことを話したいと思います。私はロシアで最も有名な演劇大学のひとつ、世界でもおそらく最も有名な演劇大学のひとつで教鞭を執り、学長を務めていますので、経験がありますし、俳優という職業の悲しい面も知っているかと思います。それで、今日の私の講演を三つの部分に分けようと思います。どんな学校も誰を教育するか、ということでその学校のあり方が決まると思います。何を教えるか、誰が教えるかということによっても、その学校のあり方が決まってくると思います。この三つのことをお話し、そのあと皆さんと話し合いたいと思います。

誰を教育するかと言うと、学生たちを教えます。彼らはどうやって演劇大学の学生になるのでしょうか。さまざまな国において、さまざまな方法で学生たちは、専門の演劇大学の学生になります。ある国では、演劇大学の学生は大金の授業料を支払わなければなりません。また別の国では演劇大学の授業料は国家が支払ってくれます。ソビエト連邦においては、演劇大学で演劇教育を受けるのは、無料でした。ソ連が消滅したあと、ロシアではじつにさまざまなことが起こりました。ロシアの演劇大学でも才能のある学生を集めるために、いろいろと歪んだ手が使われました。

90年代は混乱した時代で、国も存在していなかったし、お金もなかったのです。ただし、自由だけはありました。お金がなくて自由だけある生活というのは、非常に独特のものでした。私たちの大学でも、そのほかのロシアの演劇大学でも、まあ、たいていのロシアの大学で「混合システム」というものがとられるようになりました。

なぜか才能があるとみなされている学生、あるいはなんらかの理由で才能があるとみなされている学生は無料で教育を受けることができます。少なくとも今の時点ではそれほど才能があると思われない学生たちは授業料を支払わなければなりません。このために恐ろしいほど緊張した状況が生まれました。1つのクラスで20名から25名ほど若い俳優の卵が勉強しています。そのうち17名が無料で教育を受けています。そのほかの8人は授業料を支払い、国家の援助を受けることができないでいます。ところが、半年もたつと、才能があると思われた学生、授業料を払っていない学生が、じつは無能であったということがわかることもあるのです。また、お情けで合格させた学生、授業料を支払っている学生がじつは才能がある、あるいは能力があるということがわかることもあります。

そして、1年生が終わったところで、授業料を払っていなかった学生に授業料を支払うように言って、有料グループに移ってもらったり、授業料を支払っていた学生を授業料の義務から解放し、無料グループに変わらせてあげたりすることがよくあります。これはよからぬシステムです。これは国家の混乱によって生じたシステムです。私は昨年、自分が勤めているモスクワ芸術座演劇大学でこのシステムをなくしてしまうことにしました。これは一種の反動ですね。私はソビエト時代のシステムを戻したわけですから。そんなわけで、私は赤いワイシャツを着ているのです。薔薇色といったほうがいいでしょうか。

私たちの国、ロシアは今は赤くありませんが、薔薇色です。ロシアの津々浦々からモスクワ芸術座演劇大学に勉強にやってくる学生たちは、今では誰ひとりとして授業料を支払っておりません。全員が無料で勉強しています。それでは、誰がお金を払っているのか、という質問が出ることでしょう。一部は国家が支払ってくれます。3年前、プーチン大統領はモスクワ芸術座とモスクワ芸術座演劇大学に特別な大統領助成金を支給してくれました。このおかげで、すぐに学生たちの負担をなくすことができました。

外国人の学生たちは授業料を支払っています。何といってもアメリカの学生が授業料を支払ってくれています。アメリカ人は授業料を支払うことに慣れてしまっています。アメリカ人たちはまるでメッカに来るかのように、モスクワにやってきます。そんなわけで、私たちの演劇大学にはたくさんのアメリカの学生がおり、彼らはこの困難な時代に授業料を支払って、私たちを支えてくれているのです。

さて、授業料が無料であるということであれば、誰がその20人の学生を選ぶ神さま、受験生を裁く審判となるのか、ということになりますね。モスクワ芸術座演劇大学は国立の大学であり、ロシア全国から入学希望者が集まるということになります。もちろん、モスクワ芸術座の名前がここではものを言うことになります。それから、モスクワ芸術座演劇大学が存在している、この約70年のあいだにロシアの名優の半分以上がこの演劇大学の出身者であるということにも、意味があります。もし皆さんが、モスクワ芸術座の隣にあるモスクワ芸術座演劇大学に足を踏み入れるなら、2階と3階のあいだの階段に卒業公演を演じている若い俳優たちの写真がたくさん展示されていることに気づくでしょう。

これらの写真の俳優たちはロシアでは誰もが知っている最も有名な俳優たちですが、彼らは1946年あるいは47年、あるいは別の年に演劇大学を卒業しています。彼らは写真の中では卒業公演で演じた役の姿をしています。そういう俳優たちをどうやって選んでいくのでしょうか?

ソビエト時代、彼らはソ連各地から自分で春の試験を受けにモスクワへやってきました。試験期間は4月、5月、6月の3ヶ月間でした。ソビエト時代ならウラジオストックからモスクワにやって来ることができました。しかし、今の時代、それは不可能です。俳優になりたいと思う若い人がウラジオストックからモスクワにやってくることは不可能なのです。なぜなら、そういう若者たちはたいてい貧しい家庭の子供たちだからです。

日本の場合、たいてい金持ちの家の子供が俳優になろうとするものなのかどうか知りませんが、ロシアの場合、有名な俳優はたいてい下層階級から出てきた人たちです。今の時代、こういう貧しい人が自分でウラジオストックから、ハバロフスク、ノボシビルスク、クラスノヤルスク、シベリアを通ってモスクワにまでたどりつくことはできません。だいたいモスクワには泊まる場所がありません。たった5日間でも、モスクワに宿泊することなどできません。

なぜなら、とても高くつきますから。ですから、私たちのほうから、若い人たちを選抜するためにクラスノヤルスク、トムスク、チュメーニ、ノボシビルスクに出向かざるをえないのです。第一の課題は本当に才能のある学生を選抜することです。どの国でも俳優がたくさんいる必要はないのです。アメリカにはたくさんの数の俳優がいます。アメリカではどの大学でも俳優の演技を学ぶことができます。でもこれは素人の俳優です。ただ自分のなんらかの能力を伸ばそうというだけなのです。彼らは裁判官になったり、弁護士になったり、医者になったり、技師になったりしますが、演技の勉強は邪魔にはなりません。話をするのがもっとうまくなりますし、自分により自信を持つことができるようになります。

私たちの演劇大学は、ただ単に演劇が好きで、ちょっと演じてみたいだけの若い人を採用したりはしません。演劇大学はロシア全土を探し回ってプロの俳優になれる人を見つけ出すのです。25人か30人のロシアの主だった俳優たちは、何らかの意味で私たちの国を象徴してくれるものであり、国の顔でもあるわけです。ある意味では、どういう俳優がいるかによって、その国がどういう国であるかということがわかるわけです。私がずっと教鞭を執ってきたモスクワ芸術座演劇大学は、そういう俳優を養成するところです。それが大学の目的なのです。

つまり、その選抜は本当に残酷なまでに厳しいものです。私たちはハーバード大学の大学院と提携して、俳優教育の授業計画を一緒に立てています。もちろん、ハーバード大学は違ったシステムです。大学や大学院を卒業したあと、学生たちは俳優教育を受けにやっていて、みんなが授業料を支払います。問題なのは、学生が1年分の授業料である2万5千ドルを支払ってしまうと、学生が犯罪でも犯さない限りは、退学させるわけにはいかないということです。ですから、アメリカは俳優を職業にすることができない大量の俳優を生み出しています。ブロードウェイのカフェに行って、「俳優はこっちに来なさい」と声をかけてごらんなさい。たくさんの人が集まってくることでしょう。あそこでは、ウェイターたちがみんな俳優なんです。みなさんにコーヒーを運んできてくれる人に聞いてみてください。「いま何をしているんですか?」と。彼らの答はこうです。「いま仕事と仕事のあいだにいます」彼らは絶えず何日間か、いわゆるオーディションを受けにいくのです。

ロシアではまったく違った状況です。もしモスクワ芸術座付属演劇大学を卒業したなら、95パーセントの人が最も良い劇場の俳優になることができるのです。それで、入学時の選抜は非常に残酷で厳しいものです。
アメリカの演劇学校の選抜は10分か、15分で終わってしまいます。たった15分のあいだに、天才か凡才か、優秀か無能かを見極めなければなりません。2 分後に見極めがついても、試験官は15分たつまで、その受験生のすることを聞いていなければなりません。なぜなら、この受験生は自分のすることを聞いてもらうために、わざわざ60ドル支払っているのですから。

ロシアの演劇大学の受験生は無料で試験を受け、受験料を支払いません。どんな人でも、たまたまその場にいあわせたような人が受験して、自分の力を見せることもできるのです。そして、1次試験、2次試験、3次試験、4次試験と受けていくわけです。彼らはエチュードをやったり、歌ったり、踊ったりします。彼らは自分のできることをすべて見せるのです。想像力の練習、即興の練習をやってみせます。最後の試験に残れるのは、数千もの受験生たちのうち、たった50人です。モスクワ芸術座演劇大学の今年の入学試験の競争率は5百倍でした。これは残酷なことではありません。劇場で働くことのできる俳優を育てるために多数の人の中から学生を選抜するのは、ごくあたりまえのことなのです。47年前、私自身、モスクワ芸術座演劇大学を受験しました。俳優になりたかったのです。

私はその当時、ゴーリキー市に住んでいました。その当時は地方からモスクワにやってきて、駅かどこかに宿泊することが可能だったのです。そのときは、自分は充分に俳優になることのできる人間だと思っていました。私はたくさんの詩を暗誦していました。朗読も上手だったのです。私の母も友人たちも私の詩の朗読をとても気に入ってくれていました。当然のことながら、モスクワ芸術座演劇大学の試験を受けにいきました。ほかの演劇大学の名前は聞いたことすらなかったのです。

私はモスクワ芸術座演劇大学にやってきて、自分と受験にやってきたほかの学生たちを比べてみました。そして、自分がここでやることは何もないと悟りました。しかし、ほかに人生について考えるところがなかったので、私は自分を試してみることにしたのです。
ロシアでは演劇大学の受験は今も47年前も同じように行われているのです。いま皆さんがいるような教室に10人ずつ受験生が呼ばれるのです。受験生が10人この教室に座ります。

「さあ、朗読しなさい」と言って、その2分後、「もういいです」と言います。「次の人」「次の人」と受験している人に順々に言って、ついに私に順番がまわってきました。私は『戦争と平和』の抜粋を用意していました。プーシキンの詩も暗記していました。クルイロフの寓話も暗記していました。でも、試験をしている先生たちがどんなふうに私を中断させるかは、予測してさえいませんでした。私が読みはじめるやいなや、自分のクラスの学生を募集していたモスクワ芸術座のもの凄い名優が私を非常に丁寧に止めたのです。

「ちょっと待った、眼鏡をとりなさい」

どうして、ここで眼鏡のことを言われなきゃならないんだろう? 私はこんなに上手に朗読しているのに・・・
でも、「眼鏡をとりなさい」となおも言われます。
私は今も昔もひどい近眼なんです。今と昔の違いと言えば、今は薄い日本製のレンズ、あるいはコンタクトレンズですが、当時はソビエト製の本物の分厚いガラスのレンズでした。その当時、私の眼鏡は3百グラムもの重さがありました。
今の生活とソビエト時代の生活の違いといいますと、ソビエト時代はその分厚いガラスの眼鏡以外、私には眼鏡がなかったということです。そして1日の終わりが近づきますと、ここのところに(目頭近くの鼻の部分を指す)血がたまったものです。
私は眼鏡をはずして、その先を読みました。しかし1分もたつと、彼らには私が見えないし、私にも彼らが見えないことがわかりました。私は俳優ではない!

10人ずつ受験生が入らされて朗読をして、私たちはみな廊下に出ました。5分後、有名な俳優のアシスタントがやってきて発表しました。「誰も試験に通りませんでした。全員、不合格です」

私は、自分の人生に破局が訪れたように感じ、このさき生きていけない、と思いました。その日からほとんど半世紀がたって、いつも思うのは、彼らが私を採ってくれなくて何て幸運だったんだろうということです。試験に通っていれば、私の人生はだめになっていただろう・・・
私を試験に通してくれなかった人たちのうち何人かはまだ生きています。モスクワ芸術座演劇大学で教鞭を執っています。会議などで、今では年老いてしまったその先生たちに会うと、あのとき私を採ってくれなくてありがとう、と言いたい気持ちでいっぱいです。とはいえ、あの試練のせいで、私の胸に残っているものがあります。今でも、試験のとき、10人ずつの受験生が教室に入ってくると、私はその人たちに対して同情し、彼らと共に苦しみを感じるのです。10 人のうちのひとりは私自身だと感じるのです。ほら、あの隅っこにいる、眼鏡をかけた背の低い男の子……

そんなわけで、私はある意味では雪辱を果たしたと言えるかもしれません。
モスクワ芸術座演劇大学では、残酷なまでに厳しい選抜が続いています。ロシア人の学生たちが全員無料で教育を受けているわけですから、1年生が終わるとき、少なくとも10パーセントの学生が大学を去っていきます。理由はいろいろあります。才能がない、努力することができない、遊びたがる。俳優は音楽家と同じように1日中、練習し勉強しなければならないことを理解できない人もいます。ですから、4年間たって卒業のころになると、学生は17人か18人しか残っていません。

第二のテーマです。私たちは何を教えるか、ということです。どんなふうに教えるか、どういう教科があるか、ということです。専門のところからではなく、別のところから話を始めましょう。現代におけるプロを養成する本物の演劇大学というのは、いわゆる大学レベルの教養がなければならない、と考えられています。昔は俳優には教養は必要がない、俳優が知能を発達させる必要はない、頭がいいということと演技ができるということは別だと考えられていました。何人かの俳優は自分の頭を何かで満たすということを恐れました。なぜなら、それによって自分の演技力が損なわれるかもしれないと考えたからです。しかし、私たちの演劇大学では、ずっと以前から俳優としての専門科目以外に大学で勉強する人文科学の教養科目をほとんどすべて取り入れています。世界およびロシアの演劇史を4年間勉強します。世界とロシアの文学史、外国語、映画史、美術史、音楽史。これを規律正しく、毎日のように勉強します。朝の8時から授業が始まり、夜遅くまで勉強します。非常にたくさんの勉強量で、ほかのどんな大学よりもたくさん勉強します。そして、夜中でも稽古ができるように、モスクワの中心街にある彼らの宿舎「演劇館」(これはモスクワ芸術座演劇大学の隣にあります)にはスタジオが創設されています。これは、学生たちが昼間でも夜中でも稽古ができるように、特別に設置されたものなのです。

それから、日本でも、アメリカでも、ロシアでも、演劇大学に共通した科目があります。それは、舞台動作(ムーヴメント)、ダンス、声楽、発声(レーチ)、フェンシング、舞台での格闘、メーキャップ、ときには仮面です。でも、俳優にとっていちばん大事なのは演技です。ここで、はじめてスタニスラフスキーの名前をあげなければなりません。スタニスラフスキーがどんな人であるか、お話して皆さんを疲れさせることはしたくないと思います。この話をしますと、本当に長くなりますから。ただ、私たちが今どんなふうにスタニスラフスキーを活用しているか、今の私たちにとってスタニスラフスキーというのは何であるかということをお話したいと思います。私が8年前、モスクワ芸術座演劇大学の学長になったとき、私たちの演劇大学のどの廊下にも、どの部屋にもスタニスラフスキーの顔写真が飾られていました。レーニンとスタニスラフスキーの写真がそこかしこにありました。そして、何よりもおもしろいのは、いつもある決まったスタニスラフスキーの写真が飾られていたことです。だって、彼は俳優だったんですよ。ですから、彼の写真といえば、さまざまな写真がごまんとあるはずです。若いスタニスラフスキーもいます。美男子です。2メートルの身長です。22歳で彼はもう白髪になっていました。すばらしい体格をしていました。ゴーリキーはスタニスラフスキーのことを「美しい人」と名づけました。男の人がこんなふうに言われるのは稀です。たいてい、女の人のことを「美しい」と言いますね。

でも飾るのに選ばれる写真は、たいてい死ぬ2年前の写真で、少し衰弱していたころの写真です。鼻眼鏡をかけて、オリュンポスの神のように皆さんのことをどこか上のほうから見下ろしています。どうして、他でもないこの写真が選ばれたのだろう、と私は思ったものです。私は通りで日本人の学生たちを、ロシアの学生たちを見るように観察します。彼らはみんな同じような格好をしています。同じようにジーンズをはいています。ときどき、膝のところが破れています。スニーカーを履いています。タバコを吸っています。私はタバコをやめさせるために闘っています。演劇大学ではタバコは禁じられていますし、吸っている学生は演劇大学から追い出します。それでもやっぱりタバコを吸うのです。ところが、オリュンポスの神が壁に飾られているのです。そうすると、この神のことを恐れるしかありません。しかし、教師のことを恐れるなら、学ぶということはまったくできなくなります。演劇というのは、そもそも楽しく陽気なものなのです。演劇大学で学ぶということは、「遊ぶ」(ロシア語では「遊ぶ」という意味の単語は「演技をする」という意味も持っている)ということでもあるのです。そして遊びの規則を学ばなければならないのです。何人かの子供たちは遊ぶことができません。たとえば、「君は馬で、僕は騎士だ」と言うと、「馬ってどうしたらいいのかわからないから、ひとりで遊んだら」という反応が返ってくるのです。1秒のうちに馬になって、「じゃあ僕が馬だよ」と言えないような人は、俳優ではありません。

アナトーリー・スメリャンスキーと日露会員

アナトーリー・スメリャンスキーと日露会員

私が演劇大学の学長になって1番にしたのは、これらのスタニスラフスキーの写真を取りはずすことでした。そしてスタニスラフスキーのまったく違った写真を選び出しました。タバコを吸いながら新聞を読んでいる若いころのスタニスラフスキーです。そうなると、何らかの親近感が沸きますね。タバコを吸っているのですから。こうなるともう人間です。神さまなどではありません。髪型も今までとは違っています。村井さんのように髪の毛が下に伸びています。何人かの人は「この人、誰?」と聞きます。誰かが「スタニスラフスキー」と答えます。「ええっ、これがスタニスラフスキー? いや別人だ」

私は彼のメソッドについても同じことを言うことができます。この演劇大学はたしかに、スタニスラフスキーのシステムに基づいて、俳優の演技を教えています。このシステムというのは何でしょうか。あるロシアの化学者が元素の周期律表を発見しました。彼の名はメンデレーエフと言います。周期律表を作りました。メンデレーエフはいくつかの元素に名前をつけましたが、たくさんの元素を知りませんでした。それらの元素は彼の死んだ後、今になってやっと書き込まれています。
スタニスラフスキーは演劇の歴史において、はじめて自分の学生たちに対して実験を行なった人です。すなわち、彼は俳優の演技の諸要素の周期律表を作ろうとしたわけです。

たくさんの要素をスタニスラフスキーは知りませんでした。たくさんの要素が彼の死んだ後、発見されました。でも、彼がこの周期律表を始めたのです。この周期律表が俳優の演技の教育の基礎となったわけです。四年間にわたってぎっしりとシラバス、つまり勉強する内容のひとつひとつが書き込まれています。1年目は、学生たちはまったくセリフを話すことなく、教育を受けていきます。第一声を発するまでには、長い時間がかかるものです。なぜなら、赤ちゃんが話しはじめるとき、最初に言葉を使うわけではありませんから。まず叫び声をあげます。そして泣き声をあげます。ジェスチャーで話をします。自分がどうしたいか伝えるための手段を本当にたくさん持っているのです。

最初のまる1年は、俳優の演技に必要な基本的な直感を発達させるのに当てられます。集団で存在するための練習をします。お互いに感じ合う練習、お互いに手の合図で何かを伝える練習、集団行動のリズムを感じ取る練習をします。自分の注意力を集中させる訓練をします。相手役を見る練習をします。
かの有名な作家アントン・チェーホフの甥のミハイル・チェーホフ(天才的な俳優)は次のような練習方法を発見しました。それは、ボール投げと名づけられている練習方法です。『ハムレット』の稽古をする場合、ひとつひとつのセリフを言うとき、相手役にボールを投げます。そしてセリフを返すとき、相手役がボールを投げ返してきます。何のためにボールを投げるかというと、それはかつてスタニスラフスキーがミハイル・チェーホフに勉強させたのです。俳優は相手に言葉を投げるとき、言葉の重みを感じていなければなりません。言葉は人間の身体的、心理的行動の産物であるということを、俳優は学ばなければなりません。そのための練習方法はじつにたくさんあり、教師のひとりひとりが独自の練習方法を持っているのです。俳優の演技とは別に、歌やムーヴィングやダンスを学ぶのだと考えてはいけません。これらはひとつの活動をするための要素なのです。スタニスラフスキーはごく若いころ、よくパリに行き、20世紀はじめのパリの初演をほとんどすべて観ました。スタニスラフスキーはフランスの劇場の出し物のいくつかは好みましたが、たいへん多くのものを受け入れませんでした。

1920年代、何か出し物が気に入らないと、彼はよく謎めいた言葉を口にしました。「フランスの演技だ」と。「フランスの演技」とは何でしょうか? これは言葉の演劇です。とても美しく話しているけれども、身体はまったく行動していないのです。これは喉のところだけで演技しているのです。でも、身体全体が演技に参加しなければならないわけです。チェーホフの場合、人間の主な事件は沈黙しているときに起こっています。言葉から離れた練習、観察による学習、動物園に動物を観察に行くという学習は、スタニスラフスキーから始まっているものです。動物園に行ったことのある人なら誰でも知っていますが、自由にしている動物は、驚くほど素晴らしいです。人間とちっとも似ていません。人間よりも遙かに完璧です。猫は人間よりずっと優れた俳優です。ずっと自由です。自由に振舞っているときの猫をどのように真似ればいいでしょう。猫にどんなふうに学べばいいでしょう。身体を伸ばすとき、猫はどれほど素晴らしいか。自分の身体を手で綺麗にするとき、猫はどれほど素晴らしいか。

1学期が終わるときに作る芝居は、すべて観察から成り立っています。2学期が始まるとき、やっと言葉が登場します。これと並行して、彼らはつねに自主訓練をしなければなりません。学生たちが自主訓練を披露するとき、教師たちは彼らがどんなものを見せてくれるか、想像もつかないことがあるのです。1学期の終わりに、「キャベツ・パーティー」と呼ばれるコミカルな寸劇が必ず披露されます。何か滑稽な行動をして見せるのです。自分自身に対して、先生に対して、あるいはスタニスラフスキーに対してからかってみたり、物真似をしてみたりするのです。俳優にユーモアのセンスがないなら、それは俳優ではありません。ですから、これも鍛えていくことができるわけです。私はこのシステムのひとつひとつの部分を説明していこうとは思いません。それをすると、1冊の本が書けてしまいますから。それに、学生たちはそれらを4年かけて学んでいくのですから。3年生、4年生になりますと、彼らが参加する卒業公演が4つか5つか6つもあるわけです。いくつの公演になるかは、そのグループによります。

この卒業公演に招待されるのは、アメリカのように俳優を斡旋するエージェントの人たちではありません。アメリカの場合、大学院を卒業すると、ニューヨークに行ってワークショップを行ない、それを見に来るのは俳優を斡旋するエージェントの人たちです。アメリカでは、俳優は「私は成功した。俳優を斡旋する人が呼んでくれた」ということになります。エージェントというのは、一方では俳優の運命を左右する人です。ですから、アメリカの俳優たちはエージェントについていろいろ滑稽な小話を話すのです。
私がいちばん好きな小話は次のようなものです。ある有名な俳優が瀕死の状態で、蔵書は誰々に遺し、家は誰々に遺し、車は誰々に遺し、私のエージェントには私のお骨の10パーセントを遺すようにと遺言します。10パーセントというのは、エージェントに支払っていた斡旋料の割合です。

しかし、ロシアの卒業公演を見に来るのは、モスクワの大きな主だった劇場の指導者(芸術監督、主席演出家、支配人など=訳注)です。演劇大学の学生を見に来るのです。モスクワには百カンパニーがあります。これは劇場の建物ではなく、劇団です。しかも、モスクワ芸術座演劇大学においても、4、5人、モスクワの最も大きな劇団の指導者が教えに来ています。ですからほとんど90パーセント、あるいは95パーセントの卒業生がすぐに劇場に就職することができるのです。テレビ、映画に出演するのは、言うまでもないことです。モスクワ芸術座演劇大学は大きなテレビ・映画会社と契約を結んでいますので、テレビ・映画会社は最初の時点から演劇大学を見に来るわけです。

ロシアではまだ俳優を斡旋するエージェントのシステムがありません。そこで、私たちは自分たちの演劇大学内にそのようなエージェントを設けることにしました。しかも、演劇大学にはプロデューサー科もあります。プロデューサー科で勉強している学生たちは、自分のサイトを持っています。英語のサイトとロシア語のサイトがあり、そこでモスクワ芸術座演劇大学の3年生、4年生の学生ひとりひとりのことが紹介されています。その俳優についてのすべての情報が掲載されています。その俳優が芝居を演じている断片や、もし映画に出ているなら、その映画の一場面が掲載されるのです。ですから、私たち自身が彼らの運命を切り開いてあげているのです。もう一度言っておきたいのは、この演劇大学は小さな、エリート校なのです。演劇大学の学生数は、プロデューサー科、美術科を含めても、たったの200人です。ロシア語には「手作り生産」という言い方がありますが、演劇大学ではひとりひとりの学生を手塩にかけて、手作りで教育していくのです。これは、スタニスラフスキーの時代から続いていることです。モスクワ芸術座は一度として劇団員を採用したことがありません。つまり、「採用」という言い方をしないのです。私たちは劇団員を集め、劇団にします。スタニスラフスキーはこういう表現をしていました。私たちの大学の場合も、学生を選抜して集めて、劇団と同じ方法でひとつの劇団にするのです。

この演劇大学において、すべての教師がスタニスラフスキーのシステムで教えているでしょうか? もし皆さんが先生たちにそう聞くとしたら、全員が「もちろんそうだ」と答えることでしょう。でも、私は彼らの授業を見学に行きますが、彼らがみんな異なったやり方で教えていることに気づいています。私は正統的なスタニスラフスキーの方法と、生きた本物のスタニスラフスキーの方法があると分類しています。長年にわたって、私たちの演劇大学ではスタニスラフスキーは正統的に教えられてきました。右に寄っても、左に寄ってもいけない、1歩でも右か左に逸れたら撃つぞ、というわけです。

モスクワには素晴らしい演出家がいます。ピョートル・フォメンコです。彼はおそらく今、最も優れた演出家でしょう。彼はもう75歳です。最も素晴らしい演出家です。彼は1950年代のはじめに、モスクワ芸術座演劇大学で勉強を始めました。そして、そのときフォメンコはモスクワ芸術座演劇大学から追い出されました。私は最近、本人になぜ追い出されたのか、と尋ねました。その当時、ひとり教師がいました、と彼は答えました。その教師もスタニスラフスキーの弟子でしたが、彼のスタニスラフスキーに対する理解は非常に独特のもので、彼は異端派でした。その教師のどういうところが異端であったかと言うと、スタニスラフスキーの正統的なメソッドに従うと、俳優が声の抑揚を模倣するのを学ぶことはできないのです。

あなたが女優で、私が教師だとします。私が声であなたに挨拶を教えることにしましょう。私はあなたに「こんにちは」と言います(通訳が「こんにちは」と真似させられる)。そうじゃなくて、「こーんにちは」ですよ(通訳も「こーんにちは」と真似させられる)。こういうやり方は禁じられているのです。正統派の場合は禁じています。女優が「こんにちは」というためには、自分自身の中に感情を呼び覚まさないといけないのです。私が言ったように繰り返してはいけません。私たちは声の抑揚を模倣するのではありません。
フォメンコが習ったこの先生はスタニスラフスキーの流派の中で異端派でした。彼はよくドアに鍵をかけ、誰にも聞かれないようにしました。椅子もこんなふうに置いて学生たちに、「真似してごらんなさい」と勧めました。教師も追い出され、フォメンコも追い出されました。で、皆さんに言っておきたいのですが、このかつて追い出されたフォメンコが今ではロシアにおいて最も優れた演出家となっているのです。
私はフォメンコの稽古に何度も立ち会いました。フォメンコの俳優たちは非常に頻繁に他の人が言った声の抑揚を模倣しています。フォメンコ自身たいへん音楽性のある人だからです。ときとして、自分が俳優に何を要求しているのか説明するのが、非常に難しい場合があります。でも、俳優が自分の話した抑揚を音楽的に正しく繰り返すなら、その抑揚を内から理解することができるようになります。

ただひとつ言っておきたいのは、正統派のスタニスラフスキーはもう終わってしまったということです。私は演劇大学に最も才能のある現代の俳優や演出家を私たちの演劇大学に呼びたいと思っていますし、現にそうしています。このような俳優や演出家はいろいろな方法でスタニスラフスキーを理解しています。もちろん、何らかの共通した場がありますし、共通した枠組みというものもあります。しかし教師たちは自分が教えたいと思うことを教えています。このようにして、新しいスタニスラフスキーが毎年のように、毎日のように、授業のたびごとに生まれているのです。毎年、毎月、毎日、新たにスタニスラフスキーが誕生するということこそが、たったひとつ必要な課題なのです。以上が私のお話したかったことです。

それでは、質問をお願いします。

(質問)いまちょっとわからなかったんですけど、正統派のスタニスラフスキーのことですが、フォメンコが追い出されたのは異端派だったからですか? 正統派は模倣するということをしなかったからでしょうか?

(答)一部にはそれが理由でしょう。追い出されたのは、この青年(フォメンコ)がモスクワ芸術座の演劇流派のシステムの規範からはずれているとみなされたからでしょう。彼はそれとは少し別のことを求めていたのです。だから、追い出されたのです。あまりにも才能があったということです。
その当時、モスクワ芸術座演劇大学を卒業したオレグ・エフレーモフを、モスクワ芸術座は劇団の俳優として採用しませんでした。もっとも、後にエフレーモフはモスクワ芸術座の芸術監督となり、30年間モスクワ芸術座を率いていくことになりましたが、演劇大学を卒業したときはモスクワ芸術座に採ってもらえなかったのです。敵だとみなされたのです。

(質問)モスクワ芸術座演劇大学では俳優の育成が主要になっているが、演出の教育はどう位置づけられているか? 演出については、どういう教育が行なわれているか?

(答)まず第一に残念ながら、モスクワ芸術座演劇大学における演出の教育はとても不充分なものですし、演出を勉強する学生を毎年採るわけではありません。演出家を養成する場合、演劇大学に非常に優秀な大演出家がいなければなりません。大演出家にのみが演出家を養成することができるのです。俳優は演出家を育てることができません。

演出という芸術はせめてある一定の期間、演出家のそばについて学ばなければなりません。一人か、二人か、三人の、さまざまな最も優れた演出家のそばについて学ばなければなりません。そして、これはロシアのどの大劇場にとっても、深刻な問題です。劇団という組織にとって重大な問題です。ロシアの劇団にとっても、日本の劇団にとってもこれは問題です。どの国においても、演劇の将来の運命は優れた演出家を育てられるかどうかにかかっていると思います。アメリカでは国全体で5,6人しか大演出家はいません。というのは本物の演出の訓練法がないからです。フランスでも同じことです。演出はされていても、演出家はほとんど育っていません。20世紀のロシアでは、世界に発信する演出の流派、演出家が現われました。メイエルホリド、タイーロフ、スタニスラフスキー、エフロス、トフストノーゴフ、リュビーモフなどです。ロシアでは演劇の本質が変わり、演出家の時代が始まったことが理解されていました。何世紀にもわたって、演劇は俳優と劇作家の芸術でした。メイエルホリドは演劇に新しい形式を与えました。演劇というのは俳優の芸術であると同時にさまざまな要素をすべて構成し組み合わせたものです。全体の構成を与えるのが演出家なのです。何百人ものすばらしい俳優を集めたところで、全体の構成を与える人がいなければ、演劇は成り立たないのです。正直なところ、演出家を養成する方法がないということ、演出家の流派が創り出せないということが、現代のロシア演劇における最も切迫した問題です。

国立演劇大学(ギーチスと呼ばれるが、現在の正式名称はロシア演劇アカデミー=訳注)にはいくつか演出のクラスがあります。でも正直に申し上げますと、フォメンコが演出を教えているときは新たに演出家が現われました。しかし、まったく平凡な演出家、あるいは才能のない演出家が教えているときは、平凡な演出家や才能のない演出家しか育ちません。ロシアでも日本でも、問題は一流の演出家たちが演劇大学にいるかどうかということです。私は、演劇大学においては本当に優れた一流の俳優や演出家が教育に当たってくれることを望んでいます。ロシアにおける状況は非常に変化し、そのような機会を得ることがほとんど不可能になっています。今や生活おいていちばん大事なものと言えば、「お金」なのです。
アメリカでは、偉大なアメリカの俳優が演劇学校で教えることはありません。そしてロシアでも、偉大な俳優や演出家がだんだんと演劇大学で教えたがらなくなってきています。彼らには時間がありませんし、演劇大学では彼らの勤労に見合った報酬を支払うことができないのです。それで彼らはテレビや映画で仕事をするのです。
スタニスラフスキー、ミハイル・チェーホフ、ワフタンゴフは演劇大学で教えることを名誉とみなしていました。今はそうではありません。そういう意味で、私たちは恐ろしく退化してしまっているのです。もし私がいま皆さんに、私たちは繁栄していると言うなら、私は嘘をついていることになります。私たちは退化しているのです。

ロシアにはカマ・ギンカスという大演出家がいますが、彼は私たちのモスクワ芸術座演劇大学の演出クラスで5年間教鞭を執りました。このギンカスはレニングラードのトフストノーゴフのもとで学んだのです。私はギンカスに尋ねました。「カマ、トフストノーゴフは毎日教えてくれたのか?」と。「いやひと月に1 回だった。それ以上は来てくれなかったけれど、この月に1回の彼の授業は、私が永年演出家をやっていくに当たって、たいへん大きな意味を持っていた」と答えてくれました。芸術においては、それしかありえないのです。名人の横にいて名人のすることを見ているのです。中世の教育方法です。「俺のやるようにやるんだ。よく見てろ」と言うわけです。私のやっていることを見て覚えなさい、ということです。演出家の教育は、私の横に座って、私が何をしているか見なさい、というものです。

エフロスは俳優についてこう言いました。俳優というのは何でしょう? 俳優は何かしているが、何をしているのかわからない、俳優は自分が空を飛んでいるような気がしており、彼はパラシュートもなく空から落ちてきていて、今にも墜落して木っぱ微塵になりそうです。演出家というのは何でしょう。演出家は俳優が今にも落ちそうになっているときに、俳優にパラシュートを投げかけてあげる人のことです。ほんのひとことのヒントを述べることによって、墜落していく俳優にパラシュートを投げてやるのです。私が生涯において一度ならず、優れた演出家が墜落していく俳優にパラシュートを投げているような偉大な稽古に居合わせることができたのは、たいへん幸せなことです。皆さんの人生においても、ある瞬間に誰かが墜落しそうな皆さんにパラシュートを投げてくれるようお祈りしたいと思います。
ありがとうございます。

送別会

送別会

(質問)さきほど卒業生の95パーセントが劇場の俳優になるとおっしゃいました。ロシアの劇場や劇団においてビジネス面にかかわる人をどこから連れてくるのか、俳優から経営者になるのか、俳優が両方を兼ねるのか、5パーセントの中から出てくる場合もあるのか?

(答)ちょっと変わった面白い質問ですね。劇場の俳優になれなかった10パーセントの人の中には劇場の制作の人間、支配人、プロデューサーになったりする者もいますが、たいていの人は演劇をやめてしまって、劇場に就職することはありません。俳優になれなかった人はたいてい演劇をやめてしまうものです。何人かの人はテレビや映画に出ます。ロシアではソープオペラ(メロドラマのこと)が大きな産業として成り立っています。90年代においては、わが国で放映されるソープオペラというと、ラテンアメリカのドラマだったのです。ロシアじゅうの人が釘づけになったいちばん有名なドラマは、『お金持ちも涙を流す』というメロドラマです。本当に国中の人がドラマを見ていました。今のロシアでは非常にたくさんのロシアのメロドラマが放映されています。今ではロシアの大金持ちも涙を流しているわけです。どれだけたくさんの俳優がそのドラマに必要かわかりますか? 私たちが劇場から追い出した俳優たちがメロドラマで演じているわけです。

アートマネージャー科(プロデューサー科)は国立演劇大学(ギーチス)にもありますし、モスクワ芸術座演劇大学にもあります。プロデューサー科の新しいクラスでは外国語を2ヶ国語か3ヶ国語、必ず知っていなければなりません。卒業後すぐに、国立劇場でも、商業演劇でも仕事ができるプロデューサーを育てています。こういうプロデューサーの卵たちが俳優や演出家の卵たちと一緒に演劇大学で講義を聞いているのです。彼らはただ単にお金を数えるだけではありません。プロデューサーの卵たちは演劇大学の一部であり、俳優や演出家をめざす人たちと共に育っていくのです。ここに大きな意味があります。ロシアの政府は、プロデューサーになる勉強をしている人たちの一部を演劇大学から経済大学やそのほかの、演劇大学以外の大学に移動させたいと考えています。彼らはマネージャーなのだから、というわけです。でも私たちは、演劇のプロデューサーは必ず演劇大学で勉強すべきだという立場にあくまでも立っています。彼らは演劇大学の中にいて、内側から俳優や演出家や美術家の仕事とは何かということと、その仕事の大変さを理解しなければなりません。ですから、今のところは何とか私たちの立場を貫いています。

(質問)なぜプロデューサーは俳優の仕事を理解していないといけないのですか?

(答)プロデューサーが俳優の仕事をよく理解しておかなければならないのは、奴隷を所有する人間になるのではなく、本当の意味で人々を啓蒙する仕事の主(あるじ)となるためです。ロシアでは俳優に憎まれるような恐ろしいプロデューサーが存在しました。でもこれは間違っています。啓蒙を行なうプロデューサーは俳優の友達で、芸術を理解していなければなりません。でなければ、どうやってプロデューサーの仕事をすることができるでしょう。ソビエト時代には演劇のプロデューサーは共産党によって任命されました。彼らは芸術と何の関係も持っていませんでした。昨日までは公衆浴場の社長をやっていたくせに、翌日になれば劇場の支配人になるという具合です。
私はお風呂で社長をしていたような劇場の支配人とも仕事をしてきました。ソビエト時代においては、そういう人がモスクワ芸術座の支配人だったのです。ある人から聞いたんですが、その人はKGBで働くように言われたのに、KGBには行かず、なぜかモスクワ芸術座に来てしまったのです。その人がどんな支配人だったか皆さんに想像がつくでしょうか? その人はスターリン時代にすでに任命されていたのです。ちなみに、スターリンはモスクワ芸術座の支配人たちを非常に愛し、2年に一度、次から次へと支配人をやめさせては銃殺していたのです。俳優に関しては、銃殺はしませんでした。でも、支配人が銃殺されたことは、俳優に思い知らせるように仕向けていました。そういう時代はもう過去のことで、今では幸いそういうことはありません。

(質問)ロシアにも俳優の「くさい芝居」というのはありますか? 声が出ていないとか、くさい演技とか・・・日常生活においてすら、くさい演技をしている人がいますが。くさい演技(不自然な演技)、才能、真実の基準というのは何ですか?

(答)私が質問を正しく理解していたとしたら、選考基準のことですね。くさい演技のことですが、スタニスラフスキーには俳優の真実の感覚という考え方があります。その感覚があるかどうかということではなく、演劇大学ではそれをはぐくんでいくのです。ひとつ例をあげておきたいと思います。1915年、彼はもうシステムを創り上げ、最も優れた俳優がスタジオから追い出されました。何か芝居を演じていたのですが、俳優はシステムで教育を受けていました。このシステムは世界で「俳優が舞台に存在する真実性」と名づけられていました。「舞台における真実性」というのは、最も難しいものです。舞台での存在の真実性は何かということが、最も難しいことです。スタニスラフスキーはみんながシステムに従って演じたのを見ていました。そして、次のようなことを言いました。「みなさんはだいたいのところ、私がシステムに従って教えたとおり演じたかのようです。でもみなさん全員に共通した問題、困った点があります」

スタニスラフスキー自身、俳優ですから、俳優として言ったわけです。「みなさんは真実の境界線の手前に達しただけなのです。芸術はそこから始まるのです。この真実の境界線を乗り越えたところから芸術が始まるのです。この『真実』と『真実でないもの』の境界線がどこにあるか感じ取りなさい。自由にその境界線を越えて前進しはじめなさい。みなさんは真実の境界線の手前に達しただけなのです。その先を自由に散歩しなければなりません。この境界線からやっと芸術が始まるのです」

真実という観点からいえば、歌舞伎や能はすべて真実ではありません(嘘です)。真実の性質というものがわかっていなければなりません。人は日常生活においては、歌舞伎で演じられているような歩き方はしないものです。そんなふうに自分を訓練しないものです。それにもかかわらず、私は魔法にかけられたように、歌舞伎俳優たちのしていることに見入ってしまいます。彼らが演じているのは儀式であって、台所に座ってお茶を飲んでいるような日常生活の真実ではありません。人は教会の中にいるとき、お風呂にいるときと違った身体感覚を持っています。聖職者は懺悔に来た人とは違った歩き方をします。交通警察の人は自分が主であるかのような歩き方で皆さんに近づいてきます。誰かが何か違反すると、彼らは車を止めて近づいてきます。交通警察が歩いているときはすぐに目につきます。ゆっくりゆっくり急がないで、自分が止めた車に近づいていきます。「免許証を見せなさい」事情を知っているロシア人なら、袖の下を入れます。でも、その歩き方を見てください。どんな歩き方で交通警察が近づいてくるか。交通警察のせいで、私はモスクワでは自分で車を運転するのをやめてしまいました。日本では警察というのは違ったものですね。アメリカでは人が何か違反をしたとき、警察は罰を与えたり、事情をはっきりさせるために近づいてきます。アメリカの学生が3ヶ月間モスクワにやってきたとき、私は最初に警察とのつきあい方を説明してやらなければなりません。警察が外国人である皆さんの方に近づいてくるとき、それは皆さんを助けるためではなく、あわよくば賄賂を受け取ろうと見込んでのことなのです。警察はポケットの中に手を入れています。皆さんのところへ、まるで主であるかのように近づいてきます。そして、あなたは自分が奴隷であると感じざるをえません。いかなるもういかなる法律も存在せず、どうすることもできないわけです。ロシアをコンピューターのサイトのゴーグルFで上から覗くなら、ロシア全土を見渡すことができます。数万人もの警官が運転手の傍らに立っています。もし皆さんが演劇的な目を持っているなら、皆さんがジェスチャーを読み取ることができるなら、主が立っていて、車の中には5分間のことであるとはいえ、奴隷が座っているのです。たった5分のことではありますが。そういうメンタリティーの国なんです。

(村井さんの発言)

村井さんのおっしゃったとおりで、演劇大学に入学した学生は最初はまだ磨かれていない宝石の原石です。学生たちはお互いに磨き合って、本物の宝石になっていくわけです。俳優たちはお互いに磨き合わないといけないわけです。

(質問)大学院の演出家コースで外国人が勉強する場合、ロシア語を完璧に知っていることが求められますか?

(答)完璧なロシア語は求められません。でも英語かあるいは初歩的なロシア語は知っておかなければなりません。日本語しか知らない場合、勉強することは不可能です。ロシアの演劇界では、日本語ができる人は非常に少ないです。私も日本語ができたらなあと思いますが、もうすでに言いましたが、私は自分の人生を生きてしまったのです。日本語を勉強するのは、私にはもう遅すぎます。

(質問)演出家コースに入るのは難しいですか?

(答)試験を受けなければなりません。ある戯曲について、その戯曲をどう見ているかレポートに書いて提出しなければなりません。

ご清聴、ありがとうございました。
(盛大な拍手)